復活はイエスに特有のことではない?


「キリスト教は、イエスの復活を信じる宗教」私たちはそう理解し・信じています。
全国のカトリック教会で使用されている「聖書と典礼 2011. 4. 24」に、大阪教区の司祭による文章が掲載されていますが、
どうも<復活>のとらえ方が、以前の教会と最近の教会とではだいぶ違ってきたように思えました。

      わたしたちは、復活を死体の蘇生と誤解しがちです。
    しかし、聖書は、弟子たちとイエスとの深い出会いとその喜びを報告します。
    それは、人と人との間に紡がれた<交わり>とその<暖かさ>が永遠だという意味です。

    明石海人は有名になったから、彼の想いは記憶されました。
    そのおかげで、乙吉の想いも、その存在が知られます。
    歴史の中で無数にある<交わりの暖かさ>は忘れ去られました。
    しかし、復活の信仰は、そうした無数の忘れられた大切な<交わり>の
    永遠性を教えてくれるのです。
私はこの文章を読んで、すぐに遠藤周作の「キリストの誕生」を思い出しました。

    十字架上でイエスはどんな言葉を言うか。エルサレムの外にひそみ、師がどのように
    恨みつつ死ぬかを怖れていた弟子たちは、処刑場に出かけた女たち・・・の口から、
    すべてを教えられた。そして彼らはイエスが自分を苦しめた者たち、自分を見捨てた
    弟子たちに恨みや憎しみの言葉を一度も口に出さなかったことを知ったのだ。

    これを聞いた時弟子たちは衝撃を受けた。

    イエスの死後、四散した弟子たちが再結集してイエスを救い主として高め、仰ぐまでには
    ・・・いろいろな過程と段階があるが、それらすべては今のべたような驚愕と衝撃、
    そしてイエスにたいする新しい理解から始まるのである。それまで知らなかった、気づか
    なかった、誤解していた師を再発見したこと−−それが彼らの出発点となる。
    イエスは現実には死んだが、新しい形で彼らの前に現れ、彼等のなかで生きはじめたのだ。
    それは言いかえれば彼らの裡にイエスが復活したことに他ならない。まこと復活の本質的な
    意味の一つはこの弟子たちのイエス再発見なのである。
お二人の見解は、ともに伝統的な復活理解とは別の、ある人々に起きた<イエス想起>を
「復活」だと解釈しているように伝わってきます。

となると、アッシジのフランシスコの生き方に触発され、その生き様に倣う修道士にとって
フランシスコは<復活した存在>であり、マザー・テレサからそのような生き様を得た修道女に
とっては、マザーは<復活した師>だということになりそうです。

いや、仏陀も、弘法大師も、親鸞聖人も、その方々を信じ・その道に従う人々にとっては、
<復活された先達>ということになるでしょう。

立派な生き方をなさった先達の思い出が、その方々を慕う後世の人々にとって偉大な師であると
いうことに異存はありませんが、それを「復活」と呼ぶことには、私には抵抗があります。

脱キリスト教を標榜する私ですが、「復活」は単なる<思い出>ではなく、神の第二のペルソナが
人間の姿をとり(受肉)、生きて、まことに死んだ後に、イエス自身に起こったことだと信じます。
つまり、私の中で<復活>が起こったのではなく、死んだイエスにおいて起こった出来事なのです。
 
 16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられた
      ナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
      御覧なさい。お納めした場所である。
 16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより
      先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。
      そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 
私は、このマルコ福音書の記述を<復活>と承知しています。それが私の信仰です。
ここには、イエスの思い出・暖かさの回想・裏切りへの後悔・・・といった自分の内に
起こったことを<復活>という発想はありません。

むしろ、人間には信じられない出来事に遭遇して「恐ろしく、だれにも言えず、正気を失う」ほどの
「神のみ業」が輝いているのだと思います。

2011/4/25