公会議では、教皇は特別なとき以外は公会議の総会に参加しない。 それで司教たちはかなり自由に討議を交わすことができた。 教皇はそれではどのようにして公会議中のことを知ったのだろうか。 ヨハネ23世はバチカンの自分の書斎にモニターテレビをとり付けて、それで討議の模様を 興味深げに見ていた。 ある日、公会議中に激しい口論が闘わされていた。ヨハネ23世はそれをテレビでニコニコ しながら見ていた。 しかしそばにいた長官たちは困ったような顔をしていた。 教皇はほほえみを浮かべながら、彼らを慰めるように、「大丈夫、大丈夫、議論はあった 方がいい。司教団は合唱団ではないんだから無理にぴったり声を合わせる必要はないんだ よ」と言った。 ホアン・マシア「解放の神学」 p.15 |
今年読んだ新書版に「ふしぎなキリスト教 : 日本の神様とGODは何が違うか?」という興味 深いタイトルのものがあります。 (橋爪大三郎X大澤真幸 講談社現代新書) |
キリスト教が東と西とに分かれたのは、ローマ帝国の分裂と並行したものでした。 この対談の主題、つまり近現代を規定した主要な因子としての西洋という主題との関係では、 西側のキリスト教(カトリック)のほうが関心の中心になります。 今日ふりかえってみると、それだけ、西側のキリスト教が定着した地域の文化の歴史的な 影響力が圧倒的だったわけです。 しかし、その地域がはじめから先進国だったかというと、必ずしもそうではない。 ローマ帝国の東西分裂後、西ローマ帝国は百年ともたずに滅亡してしまいます。 15世紀半ばまで、千年以上存続した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とは対照的です。 例のゲルマン民族の大移動があったりして、あっという間に、この地域の政治的な統一性は なくなってしまったわけですね。 それなのに、この地域が独特の文化的・文明的な統一性をもっていて、それが明確な影響力を 残し続けているのは間違いありません。わかりやすい例をひとつ挙げれば、EUですね。 EUの最初からの構成国で、現在でも中核をなしている国々は、ほぼ西ローマ帝国のあった 場所にある。EUは、西ローマ帝国の跡地につくられたようなものなのです。 それでは、西ローマ帝国がかつてあった地域(カトリックが普及した地域)にはどのような 特徴があったのか。 ぼくは、世俗の政治権力と宗教的な権威がきわめて明確に二元化していることだと思います。 ローマ教皇は政治的な権力を握らず、別に世俗の権力者がいた。最も重要なのはいちおう 神聖ローマ皇帝ですが、ほかにも王様や封建領主がいて、中世においてはそれらが群雄割拠 しています。 そして、世俗の権力と宗教的な権威とは、あまり仲がよくない。 ローカルな弱小王権に服属するなんてとんでもないと思った。そこで、それら弱小王権に 呑み込まれないで、教会の統一と独立を保つことに全力をあげた。 教会がとった戦略は、まず、典礼言語をラテン語に決めて、絶対譲らず、ゲルマンのローカル な言語を使うことを認めなかったことです。彼らは文字をもっていなかったので、ちょうど よかった。ローカルな言語を使えば、ローカルな民族教会になってしまったでしょう。 すると、商業とか、外交とか、いろいろな情報伝達に有利である。そこで、政治権力にとって 利用価値が出てくるんです。こうした利点は、教会が分裂せず、ひとつの組織を形成し、 政治的な勢力圏を超えてネットワークを構築できているからこそ発揮される。 これが、教会が存続した大きな理由のひとつだと思う。 つぎに、政治権力に介入するには、一神教の論理がとても大事になると思う。神の恩恵と 救済がないと、人間は生きていけない。そこで、終末の教義を脚色して、悪魔とか地獄とか、 煉獄とか、教会だけがイエス・キリストの代理として人びとを救うことができるとか、宣伝 した。そのための手段(救済財)が、教会にそなわっているとした。政治権力を上回る、 人間の救済に関する権限が、教会にあるというわけです。 |
今ここで、憲章中で、憲章の精神を代表する一つの典型的な個所を引き合いに出しておく。 それは憲章の第3章33番の次のことばである。 「教会は神のことばの遺産を大事にし、そこから宗教と倫理の領域において判断する ための原則を導き出すけれども、そうかといって教会は、現代のおのおのの問題に 対してすぐ解答をもっているわけではない。」 実はこの文章は、草案とは違っている。草案では、 「現代のこれらすべての問題に対して、教会は普遍的な解答を啓示から導きだす」 となっていた。つまり教会は聖書の中から、解答を自動的にひきだすのではなく、苦労 しながら解答を探すための光と力をうるだけであるということである。 これは一例にすぎないが、上からの神学ではなく下からの神学を試みるための基本姿勢が、 この個所からうかがえるであろう。 |