地べたから人々と社会を見る


この年末・年始、2つの新聞記事に感銘を受けました。


1.「釜ケ崎で読み直す聖書:弱き人らのもの」 毎日新聞12月27日 

  大阪・釜ケ崎で2畳一間のアパート暮らし。野宿者らの支援を続けて
  22年になるカトリック神父、本田哲郎さんが労働者らの感性に学びながら
  イエス像と福音の意味をとらえ直した「聖書を発見する」(岩波書店)を
  出版した。

  ◆ 私は(キリスト教徒)4代目で幼児洗礼を受けました。いつも人の顔を見ながら
    よい子を演じてしまう。そんな私がフランシスコ会日本管区長に選ばれて
    しまった。自分を偽り、他人を偽り、神を偽っている自分。そんな自分が
    怖くて真剣に祈りました。
  ◆ 管区長になってすぐ釜ケ崎を視察で訪れました。内心びくびくしながら
    夜回りに参加し、毛布を配ると、野宿者の一人が「兄ちゃん、すまんな、
    おおきに」と笑ってくれました。宗教者である私が希望も元気も与えられない
    のに、野宿者がニコッと笑って私を解放してくれた。この動かぬ現実から
    原文によって聖書を読み直してみようと思ったのです。
  ◆ 「山上の説教」でイエスは貧しい民衆に向かって「あなたたちは地の
    塩である。・・・世の光である」と言う。それがいつのまにか教会の信者に
    向けたメッセージであるかのようにすり替えられた。私も「周りの人々に
    福音を伝えなければ」と焦ったものです。しかし、地の塩、世の光とは
    貧しく小さくされている人たちのことです。
    「ルカ福音書」に「貧しい人は幸いである」とありますが、貧しくて家が
    ない人は幸いでしょうか。「貧しい人は、神からの力がある」というのが
    私の訳です。
  ◆ 「神の国」とか「天の国」というと死んでから行く所かなと思う。
    しかし、イエスが言う神の国とか天の国というのはこの地上に実現すべき
    ものなんです。だからイエスはパリサイ派を批判し、ついには殺されて
    しまう。
  ◆ キリスト教は3世紀以降、ローマ帝国の国教として強い立場になり
    中流以上の人たちの視座に立った聖書解釈が主流になった。
    中世以降、聖書学を組み立ててきたのは神学者たちで、生活感がない学者
    には聖書のコンテキストをとられきれるはずがありません。
  ◆ 釜ケ崎の人たちの貧困、みじめさは現代社会のしわ寄せであり、縮図です。
    社会を変えないと問題は解消しません。


     私個人の感想を書き加えますと、

     ◎ たしかに教会が教えるイエスの視座は、「地上のことよりも
       天のかなた」を見据えているような感じを人々に与えています。

       私の古くからの友人は子どもさんを亡くされてから仏教に心を
       よせ、四国八十八ケ所の巡礼や、仏陀の足跡を訪ねるインドへの  
       旅などをして、その記録を冊子にして私にも贈ってくれました。
       彼はその冊子の中で「イエスは天を仰いで教えを説いているが、
       仏陀は地上の人々の悩みや苦しみに向き合って教えている」と
       いう趣旨の文章を記していました。
       つまり彼にとって仏陀はイエスよりもはるかに身近な存在と
       感じられたのでしょう。

       これは明らかにこれまでの教会が正しくイエスの生きる姿を
       提示しきれていなかったからでしょう。
       本田神父が言うように、イエスはむしろ貧しい人々の只中で
       人々に地上で実現されるべき「神の望み」を伝えていたのです。

     ◎ さらに言えば、本田神父はさらりと「パリサイ派を批判し、殺さ
       れた」と書いておられますが、イエスの十字架刑は単なる法律
       違反ではなく、ローマ帝国に対する反逆罪という「罪状」で
       あったという点を忘れてはならないと考えます。
       参照サイト:まことの神・まことの人

     とにかく、本田神父が主張なさっているイエスの「地べたからの
     視座」にもっともっと関心をもつことが肝要であろうと考えます。



2.「人の可能性 路上で知った」  毎日新聞 2011年1月5日 

  社会福祉士を目指し大学で学んでいた藤田孝典さんは自転車でアルバイトに
  向かう途中、一人の男性とぶつかった。帰り道、同じ場所に男性が座り込んでいる。
  「もしかして、げがさせましたか」。
  男性は「いや、ここで生活しているんだ」と、高速道路の高架下に建てたテントを
  指さした。
  3カ月ほどたったある日、高架下から男性とテントが消えた。壁には、この場所での  
  寝起きを禁じる市の警告文。「何もできなかった」。

  大学院に進みバイトで働きながら、賛同する弁護士や学識者の協力を得て、06年に
  NPO法人「ほっとポット」を設立。生活保護の申請や住居探し、さまざまな形で
  支援した人は延べ2000人近くになる。

  親の遺骨を持ち歩きながら野宿する障害者がいた。3日前に声を掛けた人が、
  テントをのぞくとすでに亡くなっていた。冷たい路上の死に出会うたびに
  「なぜこんなことになるのか」と悔しく、苦しかった。

  路上生活がどれほど厳しいものか、本当のところは分からない。でも、一つ
  確かなことがある。「僕は路上で、人間の可能性を教えてもらったんだと
  思うんです」


2つの記事の人物は、それぞれに社会の底辺(地べた)に生きる人々から、
社会や人生を見る目を教わり、それを自分の生き方にしていらっしゃいます。

世間的な豊かさや地位や名誉ではなく、むしろそういうものを捨てて、それとは正反対の
生き方を選びとっているのです。
これが<イエスという生き方>だと思います。
信仰の有無とは関係なく、イエスと同じ生き方をする人々の姿の現存を示しています。

「報いを求めず、誉れを望まない」「最後は野たれ死をも甘受する」。
この<イエスという生き方>は、新年会でまぐろの解体ショウを提供したり、
軽井沢の別荘で研修会やパーティを開く生き方とは異なるものです。

どちらの生き方に共感するか? イエスは私たちひとりひとりに問いかけて
いらっしゃるのだと思います。

2011/01/10

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