わが同胞であるエスパーニャ人たちが、このエスパニョーラ島で
いかに原住民たちを鉱山へ送り込んで消耗させ、いかに大量に
殺戮をおこなって島を荒廃させているか、もはや隠蔽したり糊塗
したりすることが不可能となり、その実態が明るみに出はじめて
いた。ドン・エルナンド王は、この島の人口がこうして激減して
いったために、教皇が大司教座聖堂と司教座聖堂を建立すること
を定められたそれぞれの場所には、もはや改宗と宣教を行うべき
相手がいなくなり、残っているものは小鳥たちと樹木だけという
実態を知るにいたった。(第3巻第1章)
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この島には300万人か400万人の人間が住んでいたこと、
彼ら原住民は秩序ある大小の集落を形成していたこと、この島には
5つの重立った王国があって、5人の王が統治し、それらの王に
従属する無数の領主がいたこと。
そしてまた、この島は食料が豊富で農地は広大であり、それらの
農地を耕作して、怠け者のエスパーニャ人たちの空腹を満たし、
彼らの生命を救ってやった回数は、数えきれないほどしばしばで
あったこと、しかるにそのエスパーニャ人たちがインディオたちの
ことを反対に、働くことの嫌いな怠け者であるなどと貶め侮蔑して
いたこと。
右の神父【フライ・ベルナルド】は調査の結果以上のことを知った
はずであり、それらのことはすでにこれまで、本書の第1巻と第2巻
で十分に証明され解明されたとおりである。(第3巻第10章)
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当時、このエスパニョーラ島には男と女、大人と子供合わせて
およそ2万人のインディオが生存していたといわれるが、私として
は実際にはそれだけの数には及ばなかったと確信する。その当時は
たったそれだけしか生存していなかったけれども、もともとこの島
には300万人か400万人のインディオが死んでいたのである。
それほど大勢のインディオが自分たちの領主や王をいただいて、
それぞれの集落で平和に暮らしていた。必要な物資はすべて潤沢で
有り余るほどであり、彼らに足りないものはただ信仰の光だけで
あった。(第3巻第19章)
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そしてこれはエスパーニャ人たちが或る島から他の島へと、また、
広大な大陸のある場所から他の場所へと、移動するときのいつもの
やり方であったが、彼らはその土地を去る前には、必ずまずそこを
破壊しつくし、そこのインディオたちを殺戮してしまうのであった。
(第3巻第21章)
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アトゥエーイと領民たちは、ディエゴ・ベラスケスの率いるエス
パーニャ人たちが到着したことを知ると、一行が來島した結果は
自分らにとって、すでに多くの者がエスパニョーラ島で目撃し
経験したような、あの隷従と苦痛と破壊以外の何物でもあり得ない
ことを理解した。そこでアトゥエーイたちはこうした場合にとる
べき対策として、理性そのものが人間に指し示す手段を講ずること
に決定した。そもそも自然は、人間以外の生物や知覚・感覚を全く
もたない無生物であっても、それ自身の存在を腐敗解体させようと
するものに対して、いかに対応すべきかを教えている。それは
つまり、自己防衛という手段である。というわけで、首長アトゥ
エーイ以下のインディオたちも、自己防衛をすることになった。
だが彼らは、腹を丸出しにしたままの格好で、子どもの遊び道具と
ほとんど変わらないような弓と矢だけの無力な武器を、わずか
ばかりもっているだけにすぎなかった。そのうえ、その地には毒草
がなかったから、矢に毒を塗っているわけでもなく、近距離から
射かけるわけでもなく−−50歩とか60歩まで接近する機会は
めったになかった−−、もっぱら遠くのほうから射るだけであった。
(第3巻第25章)
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それにつづいて100人の者が全員剣を抜いて、なんの警戒心も
なくそこにしゃがみ込んで、エスパーニャ人たちと雌馬どもを
恐ろしそうに見物していた親羊と子羊のようなインディオたちを、
老若男女の区別なく腹を切り裂き突き刺して、殺戮しはじめたので、
ほんのちょっとの間に、その場に居合せた者のうちただの一人も
生き残らなかった。(第3巻第29章)
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このエスパニョーラ島にはかつてはほとんど無数ともいえるほど
大勢のインディオが住んでいたのに、このパサモンテ財務官が來島
したとき、すなわち1508年には、老若男女のすべてを合わせて
6万人しか生き残っていなかった。ところがその翌年、1509年
に第二代の提督ドン・ディエゴが来任したときには、すでに4万人
になっていた。そして1514年に、そのロドリーゴ・デ・アルブル
ケルケが分配官として帰ってきたときには、せいぜい1万3000人
から1万4000人のインディオしか残っていなかった。したがって
わが同胞のエスパーニャ人たちは、こうした割合でもってこれらの
原住民を殺戮し破壊していったわけである。(第3巻第36節)
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