憲法問題 : 松浦司教への疑問


10月21日大阪の司教館で開かれた集まりで松浦補佐司教が講演した内容を人伝に聞きました。
その要旨は

  日本に自衛隊はいらない
  米軍の駐留もいらない
  非武装の日本にすればどの国からも攻められることはない
ということだったようです。

数年前、甲子園教会で松浦補佐司教の講演があった際、自衛隊と駐留米軍を是認する趣旨の発言があり、
私は「日本国憲法」の趣旨からいえばそうではないでしょうと反論したことがあります。
当時の松浦司教は「段階的に理想に近づくことが不可欠であり、今は経過的に認めざるを得ない」との返答を
なさっておりました。

松浦司教の2つの発言を組み合わせると、この数年間で日本をめぐる状況が変化し、やっと「日本国憲法」がめざす
非武装を実現させる土壌が生まれたということかと理解しています。

それはさておき、冒頭に紹介した三番目のポイント非武装の日本にすればどの国からも攻められることはないに関しては、
大いに疑問を抱いています。

非武装あるいは形ばかりの武器しか持たない人々が、いとも容易に強力な武力をもつ国家によって根絶やしにされた
歴史の「ひとつ」をここで思い起こしておきたいと思ったのです。

以下の引用は、ラス・カサス著の「インディアス史」(長南実訳:岩波文庫)からのものです。


    わが同胞であるエスパーニャ人たちが、このエスパニョーラ島で    
    いかに原住民たちを鉱山へ送り込んで消耗させ、いかに大量に
    殺戮をおこなって島を荒廃させているか、もはや隠蔽したり糊塗
    したりすることが不可能となり、その実態が明るみに出はじめて
    いた。ドン・エルナンド王は、この島の人口がこうして激減して
    いったために、教皇が大司教座聖堂と司教座聖堂を建立すること
    を定められたそれぞれの場所には、もはや改宗と宣教を行うべき
    相手がいなくなり、残っているものは小鳥たちと樹木だけという
    実態を知るにいたった。(第3巻第1章)

    この島には300万人か400万人の人間が住んでいたこと、
    彼ら原住民は秩序ある大小の集落を形成していたこと、この島には
    5つの重立った王国があって、5人の王が統治し、それらの王に
    従属する無数の領主がいたこと。
    そしてまた、この島は食料が豊富で農地は広大であり、それらの
    農地を耕作して、怠け者のエスパーニャ人たちの空腹を満たし、
    彼らの生命を救ってやった回数は、数えきれないほどしばしばで
    あったこと、しかるにそのエスパーニャ人たちがインディオたちの
    ことを反対に、働くことの嫌いな怠け者であるなどと貶め侮蔑して
    いたこと。
    右の神父【フライ・ベルナルド】は調査の結果以上のことを知った
    はずであり、それらのことはすでにこれまで、本書の第1巻と第2巻
    で十分に証明され解明されたとおりである。(第3巻第10章)

    当時、このエスパニョーラ島には男と女、大人と子供合わせて
    およそ2万人のインディオが生存していたといわれるが、私として
    は実際にはそれだけの数には及ばなかったと確信する。その当時は
    たったそれだけしか生存していなかったけれども、もともとこの島
    には300万人か400万人のインディオが死んでいたのである。
    それほど大勢のインディオが自分たちの領主や王をいただいて、
    それぞれの集落で平和に暮らしていた。必要な物資はすべて潤沢で
    有り余るほどであり、彼らに足りないものはただ信仰の光だけで
    あった。(第3巻第19章)

    そしてこれはエスパーニャ人たちが或る島から他の島へと、また、
    広大な大陸のある場所から他の場所へと、移動するときのいつもの
    やり方であったが、彼らはその土地を去る前には、必ずまずそこを
    破壊しつくし、そこのインディオたちを殺戮してしまうのであった。
    (第3巻第21章)

    アトゥエーイと領民たちは、ディエゴ・ベラスケスの率いるエス
    パーニャ人たちが到着したことを知ると、一行が來島した結果は
    自分らにとって、すでに多くの者がエスパニョーラ島で目撃し
    経験したような、あの隷従と苦痛と破壊以外の何物でもあり得ない
    ことを理解した。そこでアトゥエーイたちはこうした場合にとる
    べき対策として、理性そのものが人間に指し示す手段を講ずること
    に決定した。そもそも自然は、人間以外の生物や知覚・感覚を全く
    もたない無生物であっても、それ自身の存在を腐敗解体させようと
    するものに対して、いかに対応すべきかを教えている。それは
    つまり、自己防衛という手段である。というわけで、首長アトゥ
    エーイ以下のインディオたちも、自己防衛をすることになった。
    だが彼らは、腹を丸出しにしたままの格好で、子どもの遊び道具と
    ほとんど変わらないような弓と矢だけの無力な武器を、わずか
    ばかりもっているだけにすぎなかった。そのうえ、その地には毒草
    がなかったから、矢に毒を塗っているわけでもなく、近距離から
    射かけるわけでもなく−−50歩とか60歩まで接近する機会は
    めったになかった−−、もっぱら遠くのほうから射るだけであった。
    (第3巻第25章)

    それにつづいて100人の者が全員剣を抜いて、なんの警戒心も  
    なくそこにしゃがみ込んで、エスパーニャ人たちと雌馬どもを
    恐ろしそうに見物していた親羊と子羊のようなインディオたちを、
    老若男女の区別なく腹を切り裂き突き刺して、殺戮しはじめたので、 
    ほんのちょっとの間に、その場に居合せた者のうちただの一人も
    生き残らなかった。(第3巻第29章)

    このエスパニョーラ島にはかつてはほとんど無数ともいえるほど
    大勢のインディオが住んでいたのに、このパサモンテ財務官が來島
    したとき、すなわち1508年には、老若男女のすべてを合わせて
    6万人しか生き残っていなかった。ところがその翌年、1509年
    に第二代の提督ドン・ディエゴが来任したときには、すでに4万人
    になっていた。そして1514年に、そのロドリーゴ・デ・アルブル
    ケルケが分配官として帰ってきたときには、せいぜい1万3000人
    から1万4000人のインディオしか残っていなかった。したがって
    わが同胞のエスパーニャ人たちは、こうした割合でもってこれらの
    原住民を殺戮し破壊していったわけである。(第3巻第36節)


これはドミニコ会修道士であった著者が同じキリスト教徒が引き起こしたあまりにもひどい所業を記録した貴重な書物の一部です。

カリブ海に浮かぶ島々のインディオ達は、その武装した姿の故に攻撃され・殺戮されたのではなく、スペイン国王の命を受けた
兵士達によって以上みたような悲惨な事態に陥れられたのです。

これはスペインだけの特異な侵略ではなく、アフリカ大陸からアメリカ大陸に移動させられた大勢の黒人たちの場合も、ヨーロッパの
先進国と呼ばれる国々が無力なアフリカの人々を、強制的に・赤子の手をねじるがごとくに連行したのでした。
ここで注目したいのはアフリカの人々が武装をしていたからヨーロッパの国々に攻め込まれ好き勝手にやられたのでなく、
先進国が一方的に非力なアフリカの人々に対して恥ずべき蛮行を行ったということです。
この点をしっかりと認識しておきたいと思います。

非武装であれば攻められることはないという主張が、いかに歴史を無視した《幻想》でしかないという以上のような事実を、
松浦司教はどのように説明するのでしょうか?



私は小学校4年生のときに敗戦を迎え、日本国憲法の平和主義がどのような背景のもとに公布されたかを、皮膚感覚で体験しています。
強力な連合国の軍事力を前にして、日本がどんなにもがいても抵抗することは不可能だ、強い軍事力には対抗・抵抗ではなく、
ただその国々の「善意と理解」にすがるしか生き残るすべはない・・・これが日本国憲法を生み出した時代の日本人の実感であったのです。

    日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な    
    理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に
    信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
つまり当時の日本人は自らの生存を、諸国民の公正と信義に委ねる決心を一方的にしたのであり、仮にそれが《裏切られた場合》には、
安全と生存の保持が失われることを覚悟するしかない・・・という悲しみを秘めた決意であった訳です。

    われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に    
    除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと
    思ふ。
これは当時の日本人の決意ではありましたが、決して世界の各国が日本国民に対してそれを《保障した理念》という訳ではありません。
つまり国際的に《合意された理念》ではなく、一方的な《宣言・願望》であったということです。端的にいえば《片思いの理念》であり、
各国がそれをどう受け止めるかは全く相手まかせです。
そういうものであったからこそ、日本国憲法はそういう日本人の決心を《国際社会において、名誉ある地位》と表現したのです。
すなわち日本人は一方的に、世界にユニークな理念を宣言したものの、それが実現するかどうかは、世界の国々に委ねられているという
《特異なポジション》をとるしかなかったということです。

私は個人的には、当時の状況を生きたひとりとして《これしかない》という認識を持ち続けていますが、60数年を経た今、あの時代を
知らない世代の人々に向かって《これしかない》という思いを押しつけることはできません。
これからの日本の在り方は、現在をそしてこれからの時代を生きる日本人が自ら選びとるべきだと考えています。

今、憲法論議をすることは私の主題ではありません。
むしろ非武装であれば攻められることはないという松浦補佐司教の主張は、歴史の事実からみても正しい主張とはいえないということ。
そしてキリスト者としてもイエスの真意を理解しているとはいえないという点を指摘したいと思います。



松浦司教の主張のポイントは「非武装と言う手段を用いて、身の安全を図る」という《保身》のテクニックとしての非武装です。
非武装はあくまでも手段であり、目的は「身の安全」の実現です。

これはイエスの生き方に照らして考えるとき、本当にイエスに倣った生き方といえるのでしょうか?

私は、このサイトの別の個所でイエスの生き方のポイントとして「報いを求めず、誉れを欲しない生き方。最後は<野垂れ死>を甘受する」
ことと書きました。実際、イエスはそのように生き・また死んでいきました。

私のこの認識からいえば、日本国憲法の理念は、

  日本に自衛隊はいらない
  米軍の駐留もいらない
  非武装の日本が他の国から攻められ・皆殺しにあうことがあってもそれを甘受する
というものでありましょう。これこそが《国際社会において、名誉ある地位》を望んだ日本国憲法の真骨頂だと確信します。

もちろん日本国民がそれに同意するかどうかは疑問です。
しかしイエスの生き方に倣うという立場からいえば、こう考える方がずっと素直であり、これは殉教者の精神にも通じるところがあると思います。

その点、松浦司教の視点は「生き延びるための手段としての非武装」という方向性が見え見えで、それは今回見た歴史の事実が示すように
何の保証もない、というよりはむしろ相手国につけいる隙を与え、好き放題の殺戮と圧制をもたらすものでしかないのが真相でしょう。

私は非武装という立場を批判しているのではありません。むしろイエスに倣って生きるという立場から賛成です。
しかしそれは身の安全を図るための手段ではなく、最悪の場合、野垂れ死を受け止めるというイエスの生き方に倣う立場からです。
あまい幻想で人々に語りかけるのではなく、野垂れ死を覚悟の上でイエスに倣おう・・・と、松浦司教には語って欲しいと願っています。

2010/10/27

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