脅しではじまる新年?


このページをはじめて2年がたちました。
2年前の大阪大司教区報<大阪カトリック時報>新年号に「神様って甘くない」という一文があり、疑問を呈しました。
今年の<大阪カトリック時報>新年号にも、池長大司教による新年メッセージがあり、同様の趣旨が説かれています。
日本のカトリック教会はよほど「神の脅し」を持ち出すのがお好きなようです。

    教会が・・・とするならば、「持っているものまでも取り上げられる」(ルカ19・26)ことでしょう。
教会が社会に向かって開かれたものでなくてはならないという大司教のお考えは理解できます。
ただ、そうしないならば(そういう信者たちは)今いただいている神の恵みをも失うだろうという話の運び方には
大変違和感を覚えます。

私はこのページを通して、「宗教が提示する神の姿は、イエス様の教えとは違っている。イエス様は神がどんな人をも
差別なさらない方だと教えてくださっている」と私なりの<神理解>を表明し続けています。

キリスト教をはじめ多くの宗教では、「これこれをすれば<罰が下る><地獄に落ちる>」、「これこれをしなければ
<罰が下る><地獄に落ちる>」と教えます。

本当でしょうか?  実際のところ、いつでも悪人は苦しみ、善人は報われているのでしょうか?
少なくとも、その人が生きている間に、間違いなく上記のような<罰>と<報い>がもたらされているとは限らない!!
ことは、誰の目にもはっきりとしていることでしょう。 では、来世で間違いなくそれが実現していると言うのでしょうか?

宗教の核心は「来世での罰・報い」を餌にして、人々に善を勧め・悪を戒めているのが現実の姿だと考えられます。
これでは<来世>をほとんど信じることのない現代人に、宗教は影響力を与えることはできないでしょう。

イエス様の教えは、「神はすべての人を差別なさらない」ことと、「目の前の<ひとり・ひとり>に本気でかかわりなさい、
とりわけ困っている人・弱っている人にかかわりなさい」という2つの点にその真髄があると私は受けとめています。
決して、「神の罰や報い」をベースに行動することではありません。



大司教は次のようにも話していらっしゃいます。
     社会に対して具体的なメッセージを発信している教会、
     何かあれば皆が出てきて喜んで働いている教会、
     いつ行っても微笑が絶えず交わりが感じられる教会、
     青少年の出入りの多い教会・・・・。

     皆様の教会がそのような教会なのか・・・・問うてみたいと思います。
大司教が目指す教会の姿・信仰のありかたを否定するものではありませんが、
なぜそれを実現させたいのか・・・という「動機付け」では、私は全く違った立場をとります。
大司教は「持っているものを神に取り上げられる」ことを恐れて・・・そうしなさいと教えておられます。

イエス様は、そうではないと思います。 目の前のひとりのありさまに「腸がちぎれる思い」をいだき、
その一人に駆け寄らずにはいられない・・・から、そうするのです。 イエス様はそうなさり、私たちにも
「あなたも行って同じようにしなさい」と教えてくださいました。

そこには、「喜んで働く」とか、「微笑が絶えず」とかの<格好よさ>は必須条件ではないと思います。

目の前の一人が必要としている「手助け」を差し伸べることこそが肝要です。

宗教は、しょせんは<格好よさ>を表に出して、神様に誉めてもらうことを目指しているだけのものでしかない
と私には思えてなりません。
それよりは、見かけなどには無頓着に、目の前の一人に必要なことをせずにはいられないという「腸がちぎれる
思い」に突き動かされた振る舞いこそが、イエス様に倣うもの(生き方)であろうと思います。

やはり、宗教は克服されるべき「存在」だと思えてなりません。
私の「脱キリスト教」は、「脱宗教」でもあるのです。

2010/1/5