神様って甘くない?


大阪大司教区の広報紙「大阪カトリック時報」 2008/1 号「からし種」欄に次のような文章がありました。
          ・・・・ もう一つは、もう少し多くの人が仕事を担うことです。
          何にもしないで日曜日にミサに出ていれば天国に行けると勘違いしてはいけない。
          神様はそんなに甘くないはずです。
教会の中のいろいろな仕事を信者が分担し合うことは、もちろん望ましいこと・必要なことです。
ただ、「天国に行けない」などという 脅しを をかけて協力を迫るというのはどんなものでしょうか?

私は、梅原猛「仏教の思想(上)」(角川文庫 8574  p.80, 81, 85)の記述を思い起こしました。
          十字架上のイエス像、それほど多義的なシンボルは、世界の宗教に
          おいても類が少ないのではないかと思われる。
          一面においてそれは愛のシンボルである。なぜなら、彼は人の罪を
          引き受けて、十字架にかかったからである。

          けれどもこの十字架上の死には他のシンボルがある。
          それは復讐のシンボルである。
          この復讐のイメージは、再臨の日のイエスのイメージである。
          ここでイエスはもはや愛の神として現れていない。
          それは全能の神、エホバの神の子、すべての権力をおのれの中に
          握り、おのれを信じたよき民と、おのれを信じない悪しき民とを判別し、
          前者に永遠の生命を、後者に死を与える裁判官の役割をする
          イエスである。

          やはりキリスト教の愛は、どこかに怒りを伴う。 人間同士の愛の背景に、
          神の怒りが控えているのである。
          ところが、このような怒りこそは、仏教がもっとも否定するものである。

私が、今、キリスト教に抱いている違和感、それはキリスト教の説くイエス像が私の信仰体験から得た
イエス様の生き方と違いすぎている点にあります。
その意味では、梅原先生の指摘は「キリスト教の提示するイエスの<愛>」を的確に批判していると思う反面
私の捉えたイエス様とは大きく違うという感慨をもちます。

今、その点を議論することはしませんが、要するにキリスト教は神の裁きからいかにして逃れ、神の許し・
天国での幸福をゲットするかにその最終目的があるというのが、キリスト教の中でも強調され、外でも認識されて
いる姿であるということでしょう。

イエス様の生涯・生き様を、そのように捉えることが本当に適切なのか?  私は大いに疑問に思います。



ところで、私は50年以上前に、黙想会で聞いた馬渡島の(邦人)司祭の説教が今も心に残っています。
          ミサにあずかっている皆さんは、必ず天国に行けますよ。
          日本の社会の中で、日曜日に教会に来るというのは大きな犠牲を伴うものです。
          皆さんがこうしてミサにあずかるために教会に来ていることは、信仰の証です。
当時の私は、交代制勤務をしていましたので、この言葉はとても慰めに満ちたものに聞こえました。
それに引きかえ「からし種」の執筆者は何という「<裁きの神>の信奉者」であることか!!

私は、キリスト信者ではない日本人に知っていただきたいと思います。

イエス様は、そのような方ではないのです。
それぞれの人が抱えている苦しみや弱さを、すべて受け止めてくださる方です。
決して「教会が教えるような<裁きの神>」ではありません。


このホームページは、そういう私のイエス理解・神理解をお話しさせていただくものです。
そして皆様に、イエス様の本当の姿を知っていただきたいと願っています。
引き続き、読んでいただければ幸いです。

2008/1/8