遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《12》

第11:「深い河」を読む(4)

  * 木口の場合

    木口や塚田の部隊はペグー山系の東側から西に向かって歩いていた。
    いや、あれは歩いていたのではない。
    ただ生きたい一心で足を必死で引きずっていたのだ。
    この頃全員、栄養失調に苦しんでいた。半分以上の兵隊はマラリアに
    かかっている。ボウカン平地はコレラが流行しているので絶対に水を
    飲まぬようにと大橋軍医が兵隊たちを戒めたが、赤痢ともコレラとも
    つかぬ血のまじった便をたえず垂らす兵も多かった。

       戦争中、ビルマのジャングルで戦った木口たちは、復員後、あの地獄を
       二度と思い出したくなかったし、誰にも語りたくなかったと言います。
       木口は東京で運送屋をはじめ順調に発展します。
       十年以上たって九州から上京した塚田は木口の会社で働くようになります。
       ところが酒がたたり肝硬変で命が危ういところまで来てしまいます。
       しかし木口には、塚田が酒におぼれた理由を知ることができません。


    あの 死の街道 で蛆に食べられながら死んでいった仲間の兵士たちの
    ことを思うと、木口は彼や塚田の今の人生は余生にすぎぬと思う。
    しかしこうして自分が生きながらえたのも戦友の塚田が、体力つきた
    自分を棄てなかったお蔭なのだ。どんなことをしても塚田を助けねばと
    彼は思った。

    木口はあの時のことをはっきりと心に蘇らせた。「食わねば・・・死ぬぞ」
    と強い声で言った塚田の声も、彼の予想していた通りだった。
    「衰弱した俺の胃は受けつけなかったけど」
    「あんたは吐きだした、食うとらん。あんたは食うとらん。だがこん俺は
    あの肉ば食うた。食わねば、わしもあんたも共倒れになると思うてな」
    漠然とした不安は、噴出した火山の黒煙のように大きくひろがった。
    「わしが食うた肉は、南川上等兵の・・・憶えとろうが、南川を」

    「憶えとろうが。あの南川の臆病げな眼。紐で耳にかけた眼鏡の奥から、
    いつもおどおどと古参兵の顔色ば窺っとった眼。あのままの眼でわしば
    じっと見たんじゃ」
    「・・・・」
    「その眼ば今も忘れられん。まるで南川が・・・わしを生涯、その眼で
    じっと見つめているごとある。酒で酔いつぶれねば、その眼から逃げる
    ことはでけん」

       二日後、塚田は息を引きとります。木口はこうしてインドツアーに参加します。

    「いよいよ母なるガンジス河です」
    車内の冷房でようやく一息いれると、江波はマイクをとりあげた。

    「今日の見学は明日のための前座のようなものです。明日、ちょうど太陽の
    光が雲を割る頃、出かけたいのですが、眠くて見学に参加なさらない方の
    ために、今、ご案内するわけです」



    「ここは人が死ぬために集まってくる街です。ここに到達する幾つもの街道、
    たとえばパーンチコシ・ロード。 ラージャ・モーティ・チャンド・ロード。
    ラージャ・バーザール・ロード。 東西南北から多くの巡礼客が死ぬために
    やって来るのです。 ほら、彼らを乗せたバスや車が走っているでしょう。
    バスや車に乗れない者はあの老行者のように時間をかけて歩いてくる。
    日本のような国にはそんな街は」と江波は言葉に力をこめた。「絶対に
    ないでしょう。絶対に」
    死ぬために来る道。木口はその言葉からビルマの死の街道を思い出した。
    頬肉のそげた兵士たちの死顔、泥まみれの道に倒れて呻き声を出している
    傷病兵の群。夢遊病者のように歩いたあの街道。その街道さえ通過すれば、
    生き残れるとかすかな希望を抱いた道。今の老行者もガンジス河にたどり
    つければ、転生できるという望みを持っているのだろうか。

    午後の陽を反射させ、広い河はゆるい曲線を描き、流れている。
    水面は灰色に濁り、水量は豊かで河床は見えない。ガートにまだ人や物売りが
    残っている。 流れの早さは遠く川面に浮かんだ何か灰色の浮遊物の移動で
    わかった。その小さく見える浮遊物が次第に近づくと、ふくれあがった灰色の
    犬の死体だった。だが誰一人としてそれに注目する者はいない。
    この聖なる河は、人間だけでなく、生きるものすべてを包みこんで運んでいく。

       その夜・午前三時ごろ、木口は高熱を出し、美津子はその看病をすることになります。

    「わたくし、もう少し木口さんを看ているわ」
    と彼女は呟いた。
    「あなた、これから朝のガンジス河に皆をつれていくんでしょ。少しお休みに
    なったらいいわ」
    「ガンジス河に行かないんですか、成瀬さんは」
    「木口さんの容態がこのままなら放っておけないもの・・・」
    一人になり、彼女は昏々と眠る木口のそばに腰かけ、入歯をはずした間のぬけた
    その顔を見おろした。ふしぎだ。つい半月前までは知りもしなかったこんな老人の
    そばで、夜を送る。この印度の、死のような夜。仏教でいう無明の夜。日本では
    想像もできぬ黒一色で塗りつぶした夜。

       回復した木口は美津子に感謝し、ツアー客と一緒に河に行きます。

    「ガンジス河に、成瀬さん、これで何回、行かれましたか」
    と木口がたずねた。
    「二回です」
    「お蔭で、やっと印度に来た甲斐がありました。私はね、あの河か、印度の
    どこかの寺で、死んだ戦友たちの法要をやりたかったが、この国にはほんの
    僅かしか仏教徒がおらんことを知りませんでしたよ。釈迦のお生まれになった
    国だというのに、今はヒンズーの国なんですな」
    「でもあの河だけは」美津子は白みはじめた風景に眼をやって、自分の気持ちを
    うち明けた。
    「ヒンズー教徒のためだけではなく、すべての人のための深い河という気が
    しました」

    「仕方なかった。あんな状態では、死体の肉を食べても」
    「多かれ少なかれ、わたしたち、他人をたべていきているんです」
    「いやいやそんなことじゃない。成瀬さんにはわからんのです。私の戦友は
    生涯、そのことに苦しんどりました。復員して彼は・・・彼は・・・その
    肉を口にした兵隊の細君とその子供に会ったからです。何も知らぬ子供の
    無邪気な眼は・・・その男の心に突き刺さり、生涯の苦しみになりましてね。
    彼は一人でその眼に耐えとった。親友の私にも言えずに・・・酒ばかり飲み
    よって。酒で忘れようとしたんですよ。」

    「申しわけない。なぜ言うてはならぬことを今うち明けたのか。自分でも
    よくわからんですが」
    「ひょっとすると、ガンジス河のせいですわ。この河は人間のどんなことでも
    包みこみ・・・わたくしたちをそんな気にさせますもの」
    美津子は本気でそのことを感じはじめていた。日本のどこにも、このヴァー
    ラーナスィのような町はない。

    人々が死んだあと、そこに流されるため遠くから集まってくる河。息をひき
    とるために巡礼してくる町。そして深い河はそれらの死者を抱きかかえて、
    黙々と流れていく。




    この作品の登場人物のうち、もっとも感想を述べづらいのが木口であり、塚田です。
    理由は、戦場を知らない私が何を言ってみても二人の体験・実感に肉薄できないと思うからです。
    今回のテーマに関して、私が自分を納得させうる言葉は、唯一
 What is to be will be. という、
    前にも紹介したあのことばくらいのものです。

    キリスト教の神学では、人間は完全な「自由意志」をもっているという前提があり、それが神の審判を
    受ける根拠になるのですが、私は人間がそこまで完全な「自由意志」を持っている・行使できる存在か
    どうか・・・疑問に思っています。
    そもそも人間(私)が存在しているということ自体、己の自由意志による決断の結果ではありません。
    存在自体が「与えられた」ものでしかなく、加えて人間(私)の持って生まれた資質・DNA、生まれおちた
    環境は当人の全く与り知らぬまま、ただ「そこに」「そのように」存在させられているに過ぎません。
    人間の存在・そして認識・判断・行動が「自分自身の自由な意志」に基づくという前提を受け入れる
    ことに私は同意できません。

    端的に言えば、人間(私)はその人の人生というステージに、シナリオにある登場人物のひとりとして
    本人の意志とは関係なく「そこに置かれた存在」だ・・・という理解しかできません。
    ときどき「この両親の子として生まれてよかった」という人にであいますが、それはたまたま恵まれた
    登場人物の役をもらったというケースであり、逆の立場の登場人物もまた存在している訳です。

    もし生まれる前に、どんな両親のこどもとして、どんな個性をもち、どんな時代の、どんな地域に生まれる
    かを自分の意志で決める・選べるとしたら、あなたはどんな選択をしたか? 自信をもって・自らの責任
    において今の存在を選びとったといえる人がいるでしょうか?

    加えて、その生涯のいろいろな場面においても、どれほど「自由な意志による選択」で物事に対処できる
    かどうか・・・これも疑問です。その人の置かれている環境・その人の持って生まれた性格や資質、それを
    抜きにして「自由意志(だけ)」による選択・決定をなしうるとはとうてい思えないのです。

    こう考えたからといって、だから自分には責任がない、何をしてもそれは存在を与えた「○○」のせいだと
    開き直ろうと思っている訳ではありません。

          「○○」の個所に、どんな言葉を当てはめるか?
          「深い河」の中に、次のような個所があります。

          「ねえ、その神という言葉やめてくれない。いらいらするし実感がないの。
          わたしには実体がないんですもの。大学の時から外国人神父たちの使うあの神という
          言葉に縁遠かったの」
          「すみません。その言葉が嫌なら、他の名に変えてもいいんです。トマトでもいい、
          玉ねぎでもいい」


    自分の存在そのもの、そして存在に付随するいろいろな条件(どんな時代、どんな場所、どんな環境、
    どんな資質・DNA )は、まちがいなく与えられたもの。 私たちはそのことで神に裁かれる筋合いはない。
    神の設定なさった台本どおりに振る舞い・せりふを喋るしかない。これはまさに 
What is to be will be.

    こう考えるなら、私たちは「○○」との関係においては、文字通り筋書き通りにふるまう・あるがままに
    生きれば、それ自体が「○○」の計画通りに生きることであり、そのことで自らを責めることも、裁きを
    恐れることもない・・・私はこう考えます。

    それとは別に、私たちは現実に生きている社会の中でいろいろな規範の下に置かれていますから、
    日常生活の中で、「○○」の裁きとは関係なく・それぞれの時代と場所の固有のルールのもとで行動する
    義務が生じるのは当然のことです。
    しかしそのことと「○○」との関係は別のものです。
    私の眼から見ると、遠藤氏の作品の登場人物はあまりにも「○○」との関係において自分を責めすぎて
    いるように思えてなりません。

    それが、結果的に自分を苦しめ・不幸にしてしまっている。
    私は、モーパッサンの「首飾り」を思い浮かべてしまいます。

    木口や塚田が体験した「いいつくせぬ苦難」は、日常的なルールの中で裁かれる出来事ではありません。
    ましてや「○○」によって裁かれるものでもありません。

          遠藤氏自身は、「深い河」の中で、アンデス山中にアルゼンチンの飛行機が落ち、死を目前に
          した重傷の男が話したことばを取り上げています。

          「もう皆がたべるものないだろ。俺はもう死ぬから、死んだ俺の肉を皆で食べてくれ。
          食べたくなくても食べてくれ。救いは必ずくる・・・」

          つまり氏自身は、木口や塚本とはこの点では別の感情・認識を持っていたということでしょう。

    私の視点をまとめれば・・・
    1)神は世界創造の際に、その中にご自分の考えた「アルゴリズム」を埋め込まれた。
      すべてのことはそれによって動いている。
    2)そのアルゴリズムは、人間が「祈りや嘆願」を行うことで左右されるような類のものではない。
      多くの宗教はこの点で間違った神認識をしている。
      イエスによって齎された第一のメッセージはまさに「宗教という間違った神認識からの解放」。

         私のこの見解は、「それは理神論だ!」と批判されるのですが・・・

    3)私たちは神に「アルゴリズム」の例外を祈り求めるという「ないものねだり」をすることもなければ、
      日常生活の中で体験する「幸」「不幸」を神のせい、あるいは自分の行状のせいにすることもない。
      御巣鷹山での航空機事故でひとり命拾いした少女と、他の犠牲者との「紙一重の運命の差」を、
      神の個別の計画(意向)と受け取るのは間違い。 むしろ、あの状況下で、ある条件(複数の条件)が
      整った(成立した)かどうかで、異なる結果が生じたとみるしかない。

         まさしく  
What is to be will be.

    4)私たちは神との関係において、自分を責めたり、卑屈になったりすることはない。
      神は私たちが対等に会話を行えるような存在ではない。神を日常茶飯事に巻き込むのは見当違い。
      イエスのみが、私たちと対話を行うことのできる「人となられた神」。
    5)イエスの生き方に倣って生きること・・・それがイエスの第二のメッセージ。
      それは「目の前のひとり・ひとりと本気で向き合う」生き方。

    木口・塚田という登場人物に触発されての私の感想は以上のようなものです。


第12:「深い河」を読む(5)