遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《11》

第10:「深い河」を読む(3)

  * 沼田の場合

    「もうイヤだ。夜になるのがイヤだ。父さんと母さんの喧嘩の声をきくのがイヤだ」
    クロはじっと沼田の顔を見て、当惑げに尾をかすかに振った。
    <仕方ないですよ。生きるって、そんなもんですよ>
    とクロはその時、答えた。大人になってから沼田は当時のことを思い出して、クロが
    たしかに少年だった彼に話をしてくれたと思っている。
    「父さんは母さんと、別々に住むと言っているんだ。ほく、どうしよう」
    <仕方ないですよ>
    「父さんと住めば、母さんに悪いし、母さんと住めば、父さんに悪い気がするけど」
    <仕方ないですよ。生きるって、そんなもんですよ>
    クロはあの頃の彼にとって哀しみの理解者であり、話を聞いてくれるだだ一つの生きもの
    であり、彼の同伴者であった。


       沼田は母に連れられて大連から日本に帰ります。二人を乗せた馬車をクロが追います。
       クロは諦めのこもった眼を沼田の記憶に残します。


    クロは動物が人間と話を交わせることを彼にはじめて教えてくれた最初の犬だった。
    いや、話を交わすだけではなく、哀しみを理解してくれる同伴者であることもわからせてくれた。
    それができるのは、今の時代にはメルヘンという方法しかないことを知った沼田は、大学時代から
    童話を書くことを生涯の職業として選んだ。


       結婚した沼田は肺結核で入院し、数度の手術を受けます。病室で沼田は鳥かごで九官鳥を
       飼うことになります。


    毎夜、彼はその九官鳥にだけ自分の悩みや後悔をうち明けた。ちょうど少年の頃、クロにだけ
    自分の孤独を訴えたように。
    「女房には辛い思いをさせたくない。だからお前にだけうち明けるが・・・死ぬのはやっぱりこわい。
    生きて、もっといい童話を書きたかった」
    「心配なのは、もし俺が死んだら、女房と子供とが、どのように生活するかだ。・・・どうすれば
    いいんだろ」
    どうすればいいんだろと言った時、沼田は自分の声の響きがあまりに芝居じみていたのに恥ずか
    しくなった。しかしそれは嘘偽りのない本心だった。
    「は、は、は、は」
    九官鳥は笑い声を出した。それが弱虫の彼を嘲笑するような笑いかたでもあり、励ますような笑い
    声でもあった。 沼田は病室の灯を消し、人生のなかで本当に対話をしてきたのは、結局、犬や鳥
    とだけだったような気がした。 神が何かわからなかったが、もし人間が本心で語るのが神とする
    ならば、それは沼田にとって、その都度、クロだったり、犀鳥だったり、この九官鳥だった。


       三度目の手術を無事に終えた沼田は、その間に九官鳥が死んだことを聞かされます。

    (それで、あいつ・・・身がわりになってくれたのか)
    確信に似た気持ちが、手術した胸のなかから熱湯のようにこみあげた。彼自身の人生の中で、
    犬や鳥やその他の生きものが、どんなに彼を支えてくれたかを感じた。

    「好運だったですねぇ」
    と主治医は沼田と握手して言った。
    「安心しました。今だから言いますがね」
    「知っていました」と沼田はうなずいた。「五分五分の賭けだったんでしょう。危険率が高くて、先生
    たちも迷っておられたんでしょ」
    「実は・・・沼田さんの心臓・・・手術台でしばらく停止したんですよ」
    この時も沼田のまぶたには「は、は、は」と笑う九官鳥と本棚の上から彼を馬鹿にしたように見下ろ
    した犀鳥とが浮かんだ。

犀鳥

       沼田はインドに来て、添乗員の江波と次のようなやりとりをします。

    「沼田さんは野生動物保護区にいらっしゃるつもりでしたね」
    「それが今度の狙いです。ぼくは犀鳥や九官鳥のような暑い国から来た鳥の故郷をこの目で見に
    いくんです」
    「どうして」
    「個人的秘密ですよ」と沼田は笑って、「江波さんだって秘密があるでしょう」
    「ありますよ。ふしぎだな。たいてい日本人の観光客の男性は、こうしてぼくと二人になると、個人的
    秘密をうち明けるように、女のいる家に案内してくれと小声でうち明けるんですがね。
    沼田さんは別ですね」
    「ぼくは嫌いですね、少なくとも印度では毛頭ない」
    「失礼ですが印度の自然はお考えになっている以上に淫猥ですよ」
    「創造と破壊の両面を持った矛盾した自然ですか。もうその種の説は印度の解説本で嫌になる
    ほど読みました」
    「明朝早くガンジス河での沐浴風景を見物しますがね。右岸には大小とりどりのガートや建物が
    並んでいるのに広い河を隔てた左岸は樹々が覆っているだけです。ヒンズー教徒にとって左岸は
    不浄というイメージがあるだけだそうですが、その左岸に・・・行ったことがあるんです」
    「それで・・・」
    「自然のもつぶきみな淫猥をあれほど感じた場所は他にないでしょう」
    「そう言ってからかっているんでしょう」
    「そうですよ。沼田さんがあんまり純な人だから」





    沼田もまた、遠藤氏の分身のようです。氏も幼少期を大連で過ごし、10歳のとき、父母の離婚で母と
    共に日本に戻っています。それがきっかけで洗礼を受け、「合わない洋服を着せられた」のでした。
    結核(肋膜炎)を患ったことまで沼田とそっくりです。

    沼田にとっての神(人間が本心で対話する相手)は、動物たちですが、これには私は大いに違和感を
    覚えます。
    カトリックの私にとっては、天地を創造なさった神は、人知をもってしては捉えることのできない存在。
    だからこそ、イエスという「人となった神の子」が私たちの前に≪受肉≫して現れてくださった。
    私にとっては、イエス以外に対話のできる神は存在しません。
    この点は、キリスト者と、そうでない方との大きな違いだろうと思います。
    キリスト者からみれば、人間と対話してくれる鳥や獣や草や木などは、すべて「同じ地球に生きる友」
    ではあっても、決して神:創造主ではありえません。
    アッシジのフランシスコの場合を考えても、自然は人間の友・同胞として愛すべき存在ですが、
    キリスト者の神はそういうものとは全く異なる存在だということは、譲れない信仰の基本です。

    もうひとつ、「身がわりになって死ぬ」という概念にも私は違和感を覚えます。
    1)キリスト教には、「イエスは私たちのために十字架上で死んでくださった」という考えがあります。
      しかしこれは「身代わり」とは少し違う概念です。マタイ20章28節に「人の子(は)・・・多くの人の
      身代金として自分の命をささげる・・・」という表現があり、それは「罪の状態にある人類を、神の
      もとに取り戻すために支払われる≪身代金≫」というように説明されています。決してイエスが
      十字架上で私たちの身代わりとして死んだ・・・とは考えません。

        旧約聖書には「身代わり」ということばが出てきます。(民数記 3:12、イザヤ 43:4 など)

    2)2001年1月、新大久保駅で乗客転落事故があり、その男性を救助しようとした日本人カメラマンと
      韓国の青年が電車にはねられ亡くなるという悲しい出来事がありました。
      この事故では三名の方が全員なくなったのですが、仮に最初に転落した人が無事だったとした時、
      亡くなったお二人を「身代わり」と呼ぶことは当を得ていないと考えます。
      お二人は「身代わり」になるために線路に降りたのではなく、転落者を救いたいという気持ちから
      とっさに飛び降りた(目の前のひとりへの関わり)と私は受けとめます。

    3)死んだ九官鳥を「身がわり」と考えた沼田の感慨は、キリスト教とはまったく別の思いです。
    遠藤氏が、沼田と同じ思い(「神の概念」「身代わり」)であったかどうかを私は知ることができません。
    ただいえることは、沼田のアイディアはキリスト教とは大きく異なる概念で、カトリックの私には馴染め
    ませんでした。


第11:「深い河」を読む(4)