ここまで、私なりの「遠藤氏のキリスト教理解(遠藤神学)」の探索をしてきました。 もう一度、整理してみます。 1)キリスト教への違和感 氏は、「お仕着せ」の宗教として最初の違和感を述べていましたが、これはお仕着せか どうかが本質ではなく、むしろ「西洋で成熟したキリスト教」への違和感とでもいうもの であったと私は理解しました。 マシー神父のご指摘のように、氏の違和感は「西洋と東洋の違い」を本格的・広範囲に 分析・解析した上でのものというよりは、もっぱら氏の「ひ弱さ」に原因があると考え られます。 確かに、切支丹時代の日本人は、西洋がもたらした宗教であるにも関わらず、あれだけの 「殉教者・堅固なキリスト者」を生み出しており、これは氏の違和感とはまったく別の感性 なり、環境におかれた人々が当時の日本には間違いなくいたことの証左です。 しかし一方で、西洋からもたらされたキリスト教は、氏の「個性」から眺めればいつまでも 違和感を覚えるものであり続けたのです。 2)弱者の宗教 → 弱い信仰者への共感 氏は、切支丹時代の殉教者よりも、踏み絵を踏まざるを得なかったキチジローの方に より関心を寄せています。そこに氏の「ひ弱さ」の特性を見出すことができると私は 受け止めました。 氏の「ひ弱さ」への共鳴は、キチジローたちだけでなく、イエスご自身を描く際にも 適用されていきます。 すなわち「無力なイエス・奇蹟を行わない非力なイエス」として、氏のイエス描写は 新しいイエス像を提示することになるのです。 これは西洋のキリスト教が教えるイエスの姿とは、似ても似つかぬ姿です。 私個人としては、氏のこの描写には同意できません。ただ、イエスが「ひ弱い」人々、 社会の底辺に生きる人々に、常にそのまなざしを向けていたという点に関しては、全く 同感です。教会もそのように教えているところです。 3)イエスの復活 氏が積極的に「イエスは復活などしなかった」と発言なさっている訳ではないのですが、 あまりにも 「イエスの死が、弟子たちの内面にもたらした≪変化≫」 の方をもっぱら 強調している点は、伝統的な復活のイメージとは違いすぎます。 氏の「弱い信仰者への共感」が、弱いままの信仰で終わらないためには、このような 「内面の変化」につながり、それを強調する必要があったのだと私は考えます。 つまり「弱い信仰者」が終わりまで「弱い」ままで終わるのではなく、イエスの一生 すなわち「生まれ・生き・死んでいった」イエスの一生をまるごと自分の内に受け止め たとき、キチジローたちは変わっていくのだ・・・と氏はいいたかったのでは? イエスが復活した・・・それを人伝に耳にするだけでは信仰者の生き様は変わらない。 むしろイエスの生涯がキチジローたちにもたらす変化の方に、氏は目を向けたくて向け たくて仕方ないのです。 以上が、私が考え続けた「遠藤神学」の方向性です。 大胆に集約すれば、 イエスは強く・栄光に満ちた人生を送ったのではない。惨めな一生だった。 しかし一貫して「ひ弱い人」「底辺の人々」の傍で生きた・・・同伴者として生きた。 そこから、信仰者は自分の新しい生き方を読みとるがいい。 |