キリスト教信仰の核心の一つは、間違いなく「イエスの受難と復活」です。 イエスの受難は、まぎれもない「無力なイエス」の姿ですが、復活の方はやはり「勝利者であるイエス」の イメージで語られています。
変化」の方に注目をしているのです。
このように「師イエスを裏切り・見棄てた悔悟のこころ」に満たされた弟子たちは、イエスの最後の姿に大きな衝撃を 受けます。 遠藤氏は、それが弟子たちの復活体験につながったと解釈しています。
以上のような氏の復活観は、伝統的な復活理解とは全く別のものであり、ある人々に起きた<イエス想起>を 「復活」と呼んでいるよう思えてなりません。 となると、アッシジのフランシスコの生き方に触発され、その生き様に倣う修道士にとって、フランシスコは <復活した存在>であり、マザー・テレサからそのような生き様を得た修道女にとっては、マザーは<復活した師> だということになりそうです。 いや、仏陀も、弘法大師も、親鸞聖人も、その方々を信じ・その道に従う人々にとっては、<復活された先達>と いうことになるでしょう。 立派な生き方をなさった先達の思い出が、その方々を慕う後世の人々にとって「大きな励ましの力」となり「生き方を 左右するもの」になるということに異存はありませんが、それを「復活」と呼ぶことには、大いに抵抗があります。 私にとっては、「復活」は単なる<思い出>ではなく、神の第二のペルソナが人間の姿をとり(受肉)、生きて、 まことに死んだ後に、イエスご自身に起こったことだと信じます。 つまり、私の中で<復活>が起こったのではなく、死んだイエスにおいて起こった出来事なのです。
私は、このマルコ福音書の記述を<復活>と承知しています。それが私の信仰です。 ここには、イエスの思い出・暖かさの回想・裏切りへの後悔・・・といった自分の内に起こったことを<復活>と呼ぶ 発想はありません。 むしろ、人間には信じられない出来事に遭遇して「恐ろしく、だれにも言えず、正気を失う」ほどの「神のみ業」が、 そこに輝いているのだと思います。 |