遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《5》

第4:イエスの復活をめぐって
キリスト教信仰の核心の一つは、間違いなく「イエスの受難と復活」です。
イエスの受難は、まぎれもない「無力なイエス」の姿ですが、復活の方はやはり「勝利者であるイエス」の
イメージで語られています。
十字架上のイエス と

   復活のイエス
ところが遠藤氏は、そうした復活のイエスご自身よりも、むしろ「卑怯な態度をとった弟子たちの内部で起こった
変化」の方に注目をしているのです。


   イエスは群衆の罵倒や侮辱のなかで、狭い暑いエルサレムの路を、ゴルゴタの処刑場に向かっていた。
   弟子たちはその光景を直接には眼にすることはできなかったが、その間、自分たちの裏切りを言いようの
   ない恥ずかしさで噛みしめていたのであろう。自分たちが助かるためにはイエスが死なねばならぬという
   気持ちは彼らにとって観念ではなく、事実であったのである。
   屈辱、慙愧、自己嫌悪、そのくせ「仕方がなかったのだ」という弁解--おそらく弱者が生きのびるために
   味わうあの感情を弟子たちは30数時間、味わった筈である。このような弱者にとっては残された心理的
   補償は二つしかない。
   一つはイエスを全く否定することである。裏切者が党を否定することで生きる道を見つけるようにイエスを
   否定することである。もう一つはイエスに許しを求めることである。

   心の底から弟子たちは怖れていた。十字架上のイエスが自分を見守る人々にどのような怒りの言葉と
   恨みの言葉を語るだろうかと。
   その言葉が自分たちに向けられるのもわかっていた。彼等はその言葉が怖しかった。

   十字架上でイエスはどんな言葉を言うか。エルサレムの外にひそみ、師がどのように恨みつつ死ぬかを
   怖れていた弟子たちは、処刑場に出かけた女たち--イエスの母マリアやマグダラのマリアなどの口から、
   すべてを教えられた。そして彼らはイエスが自分を苦しめた者たち、自分を見棄てた弟子たちに恨みや
   憎しみの言葉を一度も口に出さなかったことを知ったのだ。
   出さなかっただけではなく、自分たちに神の怒りのおりることも求めはしなかったことも知ったのだ。
   いや、それだけではない。罰を求めるどころか、弟子たちの救いを師が祈ったことを知ったのである、
   「父よ、彼等を許し給え。彼等、その為すことを知らざればなり」と。

                                                 「キリストの誕生」 (1978) から     
 

このように「師イエスを裏切り・見棄てた悔悟のこころ」に満たされた弟子たちは、イエスの最後の姿に大きな衝撃を
受けます
。 遠藤氏は、それが弟子たちの復活体験につながったと解釈しています。


   イエスの死後、四散した弟子たちが再結集してイエスを救い主として高め、仰ぐまでには ・・・ いろいろな
   過程と段階があるが、それらすべては今のべたような驚愕と衝撃、そしてイエスにたいする新しい理解から   
   始まるのである。それまで知らなかった、気づかなかった、誤解していた師を再発見したこと--それが
   彼らの出発点となる。
   イエスは現実には死んだが、新しい形で彼らの前に現れ、彼等のなかで生きはじめたのだ・・・・・・・・
   それは言いかえれば彼らの裡にイエスが復活したことに他ならない・・・・・・・・・・・・
   まこと復活の本質的な意味の一つはこの弟子たちのイエス再発見なのである。



以上のような氏の復活観は、伝統的な復活理解とは全く別のものであり、ある人々に起きた<イエス想起>を
「復活」と呼んでいるよう思えてなりません。

となると、アッシジのフランシスコの生き方に触発され、その生き様に倣う修道士にとって、フランシスコは
<復活した存在>であり、マザー・テレサからそのような生き様を得た修道女にとっては、マザーは<復活した師>
だということになりそうです。

いや、仏陀も、弘法大師も、親鸞聖人も、その方々を信じ・その道に従う人々にとっては、<復活された先達>と
いうことになるでしょう。

立派な生き方をなさった先達の思い出が、その方々を慕う後世の人々にとって「大きな励ましの力」となり「生き方を
左右するもの」になるということに異存はありませんが、それを「復活」と呼ぶことには、大いに抵抗があります。

私にとっては、「復活」は単なる<思い出>ではなく、神の第二のペルソナが人間の姿をとり(受肉)、生きて
まことに死んだ後に、イエスご自身に起こったことだと信じます。
つまり、私の中で<復活>が起こったのではなく、死んだイエスにおいて起こった出来事なのです。

 
    16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられた
         ナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
         御覧なさい。お納めした場所である。
    16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより
         先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」  
    16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。
         そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

私は、このマルコ福音書の記述を<復活>と承知しています。それが私の信仰です。
ここには、イエスの思い出・暖かさの回想・裏切りへの後悔・・・といった自分の内に起こったことを<復活>と呼ぶ
発想はありません。

むしろ、人間には信じられない出来事に遭遇して恐ろしく、だれにも言えず、正気を失うほどの「神のみ業」が、
そこに輝いているのだと思います。
第5:遠藤神学 私見