遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《4》

第3:強者の宗教・弱者の宗教
今回の課題「強者の宗教・弱者の宗教」は、「イエスは<無力・非力>の人だったのか?」と言い換えても
よかろうと思います。

氏が 1996年に亡くなられた時、柩には氏の遺志に基づき 『沈黙』 と 『深い河』 の二冊が納められたそうです。
『沈黙』は、1966年に出版されました。当時手にした書籍は、今は手許に見当たらないのですが、私にとって
最も印象的な個所は、キチジローの次の叫びでした。

   じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。
   踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。
   踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。
   踏んだこの足は痛か。痛かよォ。
   俺を弱か者に生まれさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは
   仰せ出される。
   それは無理無法というもんじゃい。


1971 年に篠田正浩監督作品として映画化されました。当時の教会は、これを「推薦映画」とはしておりません。
映画では、転んだ神父が女を抱くシーンを「付加」してありましたが、この個所に対して遠藤氏は最後まで強く
監督に異議を申し立てていたと、当時何かの記事で読んだ記憶があり、私自身も遠藤氏の気持ちに全面的な
共感を覚えたことを今もはっきりと覚えています。

カトリックではない監督にとっては、こういう終わり方が『当然』だったのかもしれませんが、カトリック信徒の
立場からは、大変つらい・そうはして欲しくなかった「原作(ないし信仰)に対する侮辱」のように思えたのです。

氏は、殉教した人々よりは、棄教した人々の方に目を向けています。
それはご自身の心情が強い信仰を貫いた殉教者にはついていけず、同じ場面に遭遇したら自分も同様に棄教
するかも知れないという思いがあったからでしょう。
ここに氏の「弱者の宗教」とでも呼ぶべき『信仰の立場』があります。これが氏の信仰の基本姿勢です。

このサイトの冒頭で紹介したように、キリスト教は「殉教を怖れぬ強者の宗教」であり、棄教するような人々を
裁き・地獄に突き落とす「恐ろしい(側面を持った)宗教」です。
そして日本に最初にもたらされたカトリックの信仰は、見事な果実を結んでいます。
有名な「日本での最初の殉教者である26聖人、京都から長崎へ連行され十字架上で見事にその信仰を《証し》
した人々」は、現在でも毎年2月5日にその記念日が祝われています。




また、過ぐる 2008年11月24日、ペトロ岐部神父と187殉教者の
列福式が長崎で行われ、あらためてあの時代の日本のカトリック
信仰の強さが思い起こされました。

遠藤氏は、そういうキリシタン信仰への関心を深めていく中で、とりわけ「弱い信仰」の持ち主たち:キチジロー
たちに、格別の思いを寄せていったと思われます。

それは「母親への愛情から、捨てたくても捨てられなかった自身のキリスト教信仰への≪葛藤≫」がその理由
であったろうと私には思えてなりません。つまり、ここに「情緒的だが、それだけに≪きまじめ≫すぎる」氏の
特性がまさに激しくほとばしり出ているのです。



「弱い信仰」は、不熱心な信仰という意味ではなく、むしろ教会が期待するような「信仰心の発露」ができない
自分に気づいたキリスト者ということです。
氏の「弱い信仰」への肩入れは、次第に「イエスご自身の姿」の描写にも連なっていきます。

聖書(特に福音書)が提示するイエス像は、奇跡を行い・時の権力者を批判する「力あるイエス」のイメージ
でしょう。それが冒頭の「終わりの日に審判者として登場する≪王であるキリスト≫」につながるわけです。
こういうイメージが教会の提示するイエス像ですが、氏はそれとは正反対のイメージを描きだしています。

「死海のほとり」(1973)を取り上げて、上総英郎氏はこう紹介しています。


     彼は何故カリラヤにおいて捨てられ、サマリヤにおいて追われたか。
     エルサレムにおいて何故人々の憫笑をかったか。
     遠藤周作が提示する理由はひとつ−−−それはイエスが奇跡を
     行い得ないからである。

        「私はあなたの病気を治すことはできない」
         その人は辛そうに首をふった。
        「でも私は、その苦しみを一緒に背負いたい。
         今夜も、明日の夜も、その次の夜も・・・・。
         あなたが辛い時、私はあなたの辛さを背負いたい」

     つまりここにえがかれたイエスは「年よりも20歳もふけて見え」
     「枯木のように細い手足」をもった「みにくい貧弱な大工」でしかない。

     奇蹟を行えと不可能を要求する人々に「あなたの苦しみを背負いたい」と
     これまた不可能なねがいを口にする、何も出来ないイエスである。

                                    [別冊新評]所載より  


この「無力なるイエス」の描写は、以後の氏の作品にも しつこく 続いていきます。
「イエスの生涯」の中で、遠藤氏は次のように記しています。


     イエスは群衆の求める奇蹟を行えなかった。湖畔の村々で彼は人々に
     見捨てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、
     子を失った母親の手を、一夜じっと握っておられたがが、
     奇蹟などできなかった。
     そのためにやがて群衆は彼を「無力な男」と呼び、湖畔から去ることを
     要求した。
     だがイエスはこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は彼らを愛する
     人がいないことだった。
     彼らの不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望が何時も
     どす黒く巣くっていた。
     必要なのは「愛」であって病気を治す「奇蹟」ではなかった。
     人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。
     自分の悲しみや苦しみをわかち合い、ともに泪をながしてくれる
     母のような同伴者を必要としている。                   


これはすでに「沈黙」の中で≪予告≫されていた「踏み絵の中のイエスの顔・イエスの声」そのものです。

   踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、
   お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。


こうして遠藤流のイエス像・同伴者イエスの姿が日本人と、そして世界のキリスト者に提示されることと
なりました。

当時の教会は、氏のこういう提案を当惑をもって眺めていたと記憶します。
前出のマシー神父も、「無力なイエス」という氏の見解には異を唱えておいででした。
私は、一貫して、氏のこの主張には同意できませんが、このイエス像はじわじわと日本に、そして世界に
知られるところとなっていきます。

これを私は、遠藤氏のイエス像の最大のポイントだと受けとっています。


   私が、氏の「無力なイエス」像に同意できないのは、もしそうであれば、当時のユダヤの人々が福音書の   
   描くように「イエスのもとに大勢集まった」理由が全く説明つかないからです。
   たまたまイエスに「手を握られた」僅かの人にとっては「同伴者」として喜ばれたとしても、福音書が
   伝えるような大勢の群衆が集まるという事態は起こらないだろうと思うのです。

    マルコ  1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
         1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
         1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。
           権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
         1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。


         3: 7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい
           群衆が従った。また、ユダヤ、
         3: 8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからも
           おびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
         3: 9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされない
           ためである。
         3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、
           そばに押し寄せたからであった。

   福音書は嘘を伝えていると、この伝承部分を「切り捨てる」のでは、何を(どのような資料を)前提に     
   イエス像を語るのかが分からなくなります。 単純に間違った伝承だというのは乱暴な議論です。
  伝統的なキリスト教の提示する「力あるイエス」像に対して、氏は「無力なイエス」というご自身の新しい
  イエス理解を提起しました。
  新しいイエス理解は、さらなる場面シーンに展開を見せていきます。 それが「復活」をめぐる次のテーマです。


第4:イエスの復活をめぐって