遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《3》

第2:西洋と東洋の邂逅をめぐって
ご自分の信仰の出発点を、遠藤氏はつぎのように記しています。

  私は少年時代、幸か不幸か、キリスト教の洗礼を受けさせられた・・・・・・・。−−受けさせられた・・・・・・・という
  受け身の言葉を使ったのは、それが私の自発的意志でなされた行為でないからである。
  母親が、姉のすすめにより教会に通い、洗礼を受けたあと、私と兄とにキリスト教の勉強をする
  ように命じたのである。

  少年時代、私はほとんど疑うこともなく教会に通ったが、やがてその少年時代が終わると
  人なみにさまざまの疑惑や、さまざまの疑問をキリスト教にもちはじめた。

  これを結婚にたとえるなら、彼ら(三浦朱門、矢代静一など)は自分の妻となる人を自分で選んだ
  という意味で、恋愛結婚なのであろうが、私の場合は子供のときから親がきめた許婚者と結婚した
  ようなものである。
  あるいは私の友人たちは、自分の体に合った服を仕立屋で作らせて着たのであろうが、私は
  母親が買ってきてくれた洋服を、そのまま着せられたということにもなろう。
  ただしその洋服は、私の体の寸法に合わず、あるところは長く、あるところはダブダブで、また
  あるところは短かった。
  洋服と自分との体の不釣合いで、ある年齢以上に達して私をたえず悩ませたといっていい。

      
      別冊新評 「遠藤周作の世界」1973年12月   <異邦人の苦悩> より

さらに、

  キリスト教の文学を勉強すればするほど、私は彼ら(クローデルや、モーリャックなど)と自分との間の
  距離感というものをかえって深めていったのである。
  この距離感はもちろん、キリスト教に対してだけでなく、外国の文化に対してすべていえることだろう。
  けれども、とりわけキリスト教の場合は、それがわれわれの感覚とはあまりにも離れた部分があるだけに
  私は西洋と自分というものの距離をかえって感ぜざるを得なかったのかもしれない。

といったことを経て、ご自分の生涯のテーマを発見したと記しています。

  そのテーマとは、私にとって距離感のあるキリスト教を、どうしたら身近なものにできるかということであり、
  いいかえれば、それは母親が私に着せてくれた洋服を、もう一度、私の手によって仕立てなおし、日本人
  である私の体にあった和服に変える、というテーマであった。
  

  この部分からは、氏が「西洋への違和感」と「お仕着せのキリスト教」という2つの違和感を抱くに到ったことが
  伺えます。
  私には、後者に関しては同意することができません。 というのは、それはキリスト教を捨てれば済むことで、
  実際、氏は『大学予科に通いはじめたとき・・・しばらくの間、キリスト教から離れていた。・・・キリスト教を
  捨てようと考えたことも一度ならずあった。』と述べています。
  興味深いのは、そうしなかった理由を『母親に対する愛着と・・・少年時代に対するなつかしみからにすぎない』と 
  記していることです。
  つまり「お仕着せのキリスト教」に関しては、「母親に対する愛情」という極めて情緒的な理由で結局目をつぶる
  ことにしているのです。 そういう点でも、氏はまことに『きまじめ』な人物であったと私には思えてなりません。

  結局、氏の違和感はもっぱら「西洋への違和感」であり、それは「お仕着せ」とは全くの別物でしょう。
  自ら教会の門を叩いた日本人であっても、入信後、時を経てから「西洋の臭気への違和感」を抱きはじめて教会を
  離れるケースがみられますし、幼児洗礼を受けたカトリック家庭のこどものすべてが、「お仕着せ」に反発するとは
  限らないことからも容易に推察できることです。
  
  ということで、氏のおっしゃる「お仕着せ」の部分:許婚者との結婚という比喩の部分は、氏の<違和感>の主要な
  要素とは言い難く、「西洋渡来のキリスト教」と氏との葛藤こそがメインテーマだと私は考えます。

  つまり本来なら捨てたかった許婚者を、母親への愛情の故にあえて受け入れ、生涯をかけて自分好みの《女性》に
  変身させようという大胆な構想を描いた・・・と推測できましょう。
  



そして氏は、次のような結論にいたります。


  私は自分の中に長い間、距離を感じていたキリスト教が、実は父の宗教の面を
  ヨーロッパの中で強調されすぎていたために、私にとって縁が遠く、キリスト教の
  もっているもう一つの母の宗教の面を切支丹時代の宣教師からこんにちに至るまで、 
  あまりにも軽視してきたために、われわれ日本人に縁遠かったのではないかと思う
  ようになった。


私はこの見解にはいささか疑問を覚えます。

  ・ もしそうであるのなら、切支丹時代にあれだけ多くの日本人がキリスト教を受け入れ、
   迫害に耐え、中には殉教という苦難までも甘受するほどの信仰を持つ人々がうまれた
   ことをどう説明するのか?

  ・ 父の宗教の面よりも、母の宗教の面を求める傾向は、日本人にのみ特有のことなのか?
   アジアではフィリピンをはじめとするいわゆる旧植民地の国々、あるいは韓国などでも
   キリスト教がそれなりに根づいているが、そういう国々がすべて父の宗教を受け入れる
   背景をもともと持っていた『東洋ではめずらしい特異な地域』だったといえるのか?

  ・ また「われわれ日本人・・・」という個所は、むしろ「遠藤氏個人には縁遠かった」と
   解釈するのが妥当でしょう。

このページの冒頭で紹介した「別冊新評」には、上智大学教授のフランシス・マシー神父の
「遠藤周作における東洋と西洋」という文章があります。
神父は氏の「キリスト教を日本の文化により適切な新しい形を作り上げること」・「洋服・・
和服・・に変えること」を肯定しつつも、「東洋と西洋の邂逅」を本格的に論じたものではない
と断定しています。
  

  ・氏は思想家でもないし、また、比較文化研究家でもない。
   したがって作品には、二つの文化の類似性ないしは乖離性を追求した精査な歴史的あるいは
   哲学的分析は見られないし、また用意周到な比較文化論が展開されているのでもない。
   東洋と西洋とが氏の内部で葛藤示す場合だけ、両者に関心を寄せているに過ぎない。

  ・もう一つの注目すべきことは、氏の内部に生じる葛藤の領域が宗教に限定されていることである。
   日本の文化なり感受性は仏教に薫染されて発展してきた。
   したがって、その葛藤も氏がかかる背景をふまえた日本のキリスト教徒であるという事実に由来
   しているのである。   
     マシー神父は、氏のキリスト教ないし西洋との葛藤を、「東洋と西洋の邂逅に関する本格的な
     分析」とは見ておらず、むしろ氏の『個性』から来るものと受け止めているように思われる。
  ・かくして、かなり若い頃から遠藤氏は罪と人間的弱味に打ち勝とうとするキリスト教徒の態度と
   の間に生じる相克を、体験することになったのである。

  ・遠藤氏の創作の中では、三つの無感覚のうち、罪の無感覚が最も氏を捉えている。「黄色い人」
   に登場する大学生千葉は・・・「黄色い人の僕の中には(中略)あなたたちのような罪の意識や
   虚無などのような深刻なもの、大袈裟なものは全くないのです。あるのは、疲れだけ、深い疲れ
   だけ。
   ぼくの黄ばんだ肌の色のように濁り、湿り、おもく沈んだ疲労だけなのです」と書き送っている。
   遠藤氏の描く主人公たちの多くはこの疲労感にとらわれ、道徳上の諸問題に対決する力と意志を    
   欠いている。
   罪に対する無感覚のメタファーとして、遠藤氏は泥沼の心象を前面に押し出している。
   この心象は氏の小説にしばしば出現する。
   泥沼は、生き甲斐のない安全な波瀾のない生活を意味していることもある。

  ・遠藤氏自身がひ弱過ぎるために、西欧のキリスト教の信仰が要求する泥沼・・との闘争には耐え
   がたいかに見える。そこで、氏は他の救済方法を模索する。
   すなわち、信仰に命をかけることができない、ひ弱なかくれキリシタンの歴史に救済を見出して
   いるのである。
     しかしマシー神父は最後に、次のように氏の視点への理解を記している。
  ・西洋の宣教師たちがキリスト教を日本にもたらしたことはたしかである。
   また、彼らは自分たちがそれを受容したままの形、すなわち、西洋の形で、それを持って来たの
   であった。しかし、キリスト教自体は西洋のものでもなければ東洋のものでもない。
   遠藤氏はキリスト教から西洋の形式を剥ぎ取り、愛の宗教としてその精髄へと直接に向かって
   いるのである。
   かかる観点から出発すれば、日本の文化により適切な新しい形を作りあげることが可能になろう。
   洋服・・和服・・に変えることも可能になる。
  

私の見るところ、遠藤氏は「東洋ないし日本」の視点からではなく、ご自分の「人的な感」から、宣教師
によって齎された西洋風のキリスト教を、見直そうとしている−−−と考えざるを得ないのです。

そしてその「個性」とは、マシー神父がいみじくも指摘しているように 『ひ弱過ぎる遠藤氏自身』 であった
と考えられます。 これが次のテーマにつながっていくのです。
第3:強者の宗教・弱者の宗教