ご自分の信仰の出発点を、遠藤氏はつぎのように記しています。 私は少年時代、幸か不幸か、キリスト教の洗礼を受けさせられた。−−受けさせられたという 受け身の言葉を使ったのは、それが私の自発的意志でなされた行為でないからである。 母親が、姉のすすめにより教会に通い、洗礼を受けたあと、私と兄とにキリスト教の勉強をする ように命じたのである。 少年時代、私はほとんど疑うこともなく教会に通ったが、やがてその少年時代が終わると 人なみにさまざまの疑惑や、さまざまの疑問をキリスト教にもちはじめた。 これを結婚にたとえるなら、彼ら(三浦朱門、矢代静一など)は自分の妻となる人を自分で選んだ という意味で、恋愛結婚なのであろうが、私の場合は子供のときから親がきめた許婚者と結婚した ようなものである。 あるいは私の友人たちは、自分の体に合った服を仕立屋で作らせて着たのであろうが、私は 母親が買ってきてくれた洋服を、そのまま着せられたということにもなろう。 ただしその洋服は、私の体の寸法に合わず、あるところは長く、あるところはダブダブで、また あるところは短かった。 洋服と自分との体の不釣合いで、ある年齢以上に達して私をたえず悩ませたといっていい。
さらに、 キリスト教の文学を勉強すればするほど、私は彼ら(クローデルや、モーリャックなど)と自分との間の 距離感というものをかえって深めていったのである。 この距離感はもちろん、キリスト教に対してだけでなく、外国の文化に対してすべていえることだろう。 けれども、とりわけキリスト教の場合は、それがわれわれの感覚とはあまりにも離れた部分があるだけに 私は西洋と自分というものの距離をかえって感ぜざるを得なかったのかもしれない。 といったことを経て、ご自分の生涯のテーマを発見したと記しています。 そのテーマとは、私にとって距離感のあるキリスト教を、どうしたら身近なものにできるかということであり、 いいかえれば、それは母親が私に着せてくれた洋服を、もう一度、私の手によって仕立てなおし、日本人 である私の体にあった和服に変える、というテーマであった。
そして氏は、次のような結論にいたります。
私はこの見解にはいささか疑問を覚えます。 ・ もしそうであるのなら、切支丹時代にあれだけ多くの日本人がキリスト教を受け入れ、 迫害に耐え、中には殉教という苦難までも甘受するほどの信仰を持つ人々がうまれた ことをどう説明するのか? ・ 父の宗教の面よりも、母の宗教の面を求める傾向は、日本人にのみ特有のことなのか? アジアではフィリピンをはじめとするいわゆる旧植民地の国々、あるいは韓国などでも キリスト教がそれなりに根づいているが、そういう国々がすべて父の宗教を受け入れる 背景をもともと持っていた『東洋ではめずらしい特異な地域』だったといえるのか? ・ また「われわれ日本人・・・」という個所は、むしろ「遠藤氏個人には縁遠かった」と 解釈するのが妥当でしょう。 このページの冒頭で紹介した「別冊新評」には、上智大学教授のフランシス・マシー神父の 「遠藤周作における東洋と西洋」という文章があります。 神父は氏の「キリスト教を日本の文化により適切な新しい形を作り上げること」・「洋服を 和服に変えること」を肯定しつつも、「東洋と西洋の邂逅」を本格的に論じたものではない と断定しています。
私の見るところ、遠藤氏は「東洋ないし日本」の視点からではなく、ご自分の「個人的な感性」から、宣教師 によって齎された西洋風のキリスト教を、見直そうとしている−−−と考えざるを得ないのです。 そしてその「個性」とは、マシー神父がいみじくも指摘しているように 『ひ弱過ぎる遠藤氏自身』 であった と考えられます。 これが次のテーマにつながっていくのです。 |