遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《2》

第1:遠藤作品とその神学
大阪・高槻教会ではアデリノ神父様の指導で「遠藤周作.その作品と神学」の勉強会を続けています。
アデリノ神父は遠藤周作の研究論文によりローマの大学で博士号を取られた方です。
現在この勉強会は、毎月一回、神戸中央教会と大阪梅田サクラ・ファミリア教会でも続けられています。
先日その集まりに参加する機会があり、このページを制作するきっかけを得ました。

当日いただいた資料の中に、

  『文学作品は、作家なしには存在しません。』

という文言があり、「遠藤氏の生涯・体験が作品を生み出している」、「氏の体験が作品に反映している」と
私は受け止めました。

後日、神父様とのメールのやりとりを通じて、


  遠藤周作の小説に内在する神学的メッセージを解き明かすためには、
  彼の文学作品を調べることによって、彼をより深く掘り起こして行く必要がある。
  作品は、作者の「受肉」の過程の産物である。
  その「受肉」の過程で、作者は疑いと期待の現実世界に入る。
  フィクションは作者の鏡となり、読者の鏡となる。
  なぜなら、読者は、作者の世界に入っていき同じ問題を考えることを促されるからである。  

  Johann Baptist Metzは、

    文学それ自体は存在せず、存在するのは作家である。
   ≪Literatur an sich aber gibt es gar nicht, es gibt vielmehr Schriftsteller≫

  と主張している。    J.B. Metz, ≪Theologie und Literatur≫

  彼らは、我々読者に問題をなげかけているのである。
 

という説明を頂戴しました。

私は、遠藤氏が同じカトリックであるという理由で、若いころからその作品を読んでいました。
共感できるところもあれば、違和感を覚えるところもありました。
それらを今回あらためて整理しなおしてみようと思います。
そうすることが、私自身の信仰再点検の作業にもなると考えたからです。

その結果、次の3点を氏の信仰上の特徴としてとらえることとなりました。

  @  西洋と東洋の邂逅をめぐる問題
  A  強者の宗教・弱者の宗教という問題
  B  イエスの復活をめぐる問題

これらは、氏の問題であっただけでなく、カトリックである私自身の問題でもあるのです。
以下、順を追って考えてみようと思います。
第2:西洋と東洋の邂逅をめぐって