今年(2011年)は、11月20日が「王であるキリストの主日」でした。 これはカトリック典礼歴の年間最後の主日(日曜日)であり、 翌週からは 2012年の典礼歴がはじまることになります。 実は、典礼歴の中で、私が一番嫌いな主日なのです。 ミサの福音朗読では、マタイ25章31節以下が取り上げられました。
なぜ、この主日が嫌いかといえば、この朗読からもお分かりのように、世界の終わりには神がすべての人を その生涯の行為の善悪によって裁き、「呪われた人々を地獄に突き落とす」という 『恐ろしい日』 であり、 ここにキリスト教の根源的な『恐ろしさ』が明確に提示されているからです。 キリスト教は通常「愛の宗教」と呼ばれていますが、実は、このように厳しい・恐ろしい裁きの宗教でもある ことを、毎年の終わりにあらためて人々に高らかに宣言しているのです。 よいキリスト者は、この裁きをクリアするために、日々、信仰生活に励まなければならない。そして審判の日に 神の選びにあずかる栄光こそが、キリスト者の究極の目標だと教えているのです。 このようなキリスト教の勝利宣言や『恐ろしさ』に、ついていけない人々が、地球上には間違いなく存在します。 その一人が日本の作家・遠藤周作氏であったことをご存知の方は多いと思います。 氏は、その生涯を通じてキリスト教が提示するイエス像を自分の内にどう受容すべきかを、悩みながら考え 続けた 『まじめ』 な人だったと言えましょう。 私は、このページを通じて氏の「イエス理解」を考察しつつ、私自身の「イエス理解」と「キリスト教・宗教への 違和感」を整理してみたいと思います。 |