遠藤作品をヒントに考える「イエス」

はじめに
今年(2011年)は、11月20日が「王であるキリストの主日」でした。
これはカトリック典礼歴の年間最後の主日(日曜日)であり、 翌週からは 2012年の典礼歴がはじまることになります。

実は、典礼歴の中で、私が一番嫌いな主日なのです。
ミサの福音朗読では、マタイ25章31節以下が取り上げられました。         

  

 25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
 25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、
    彼らをより分け、
 25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
 25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、
    天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
 25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、
    旅をしていたときに宿を貸し、
 25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを
    見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
 25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 
 25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の
    一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、
    悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
 25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
 25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、
    訪ねてくれなかったからだ。』
 25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、
    旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、
    お世話をしなかったでしょうか。』
 25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、
    わたしにしてくれなかったことなのである。』
 25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
   


なぜ、この主日が嫌いかといえば、この朗読からもお分かりのように、世界の終わりには神がすべての人を
その生涯の行為の善悪によって裁き、「呪われた人々を地獄に突き落とす」という 『恐ろしい日』 であり、
ここにキリスト教の根源的な『恐ろしさ』が明確に提示されているからです。

キリスト教は通常「愛の宗教」と呼ばれていますが、実は、このように厳しい・恐ろしい裁きの宗教でもある
ことを、毎年の終わりにあらためて人々に高らかに宣言しているのです。
よいキリスト者は、この裁きをクリアするために、日々、信仰生活に励まなければならない。そして審判の日に
神の選びにあずかる栄光こそが、キリスト者の究極の目標だと教えているのです。

このようなキリスト教の勝利宣言や『恐ろしさ』に、ついていけない人々が、地球上には間違いなく存在します。
その一人が日本の作家・遠藤周作氏であったことをご存知の方は多いと思います。
氏は、その生涯を通じてキリスト教が提示するイエス像を自分の内にどう受容すべきかを、悩みながら考え
続けた 『まじめ』 な人だったと言えましょう。

私は、このページを通じて氏の「イエス理解」を考察しつつ、私自身の「イエス理解」と「キリスト教・宗教への
違和感」を整理してみたいと思います。
第1:遠藤作品とその神学