11.17

     今日11月27日、この12日間の出来事をふりかえりつつペンをとる。

  その朝、まだ床の中にいた7時半頃、市外電話の声がかかる。
  もちろん不吉な予感に襲われる。 実家の隣の I7 さんが声をかせて言う。
  「母ちゃんが意識不明です。 すぐに帰って下さい!」  mom が?
  最もおそれていた出来事は、こうして始まった。

  O7 さんが同行してくれて東京へ。 電車の中で、これほど自分が大都会の巨大な渦の中で
  ぐるぐる回っているのを実感として持ったことはなかったと思う。 そして周囲の皆んな
  だって、同じように一つの小さな粒として一生懸命やってるのだということも!
  決して、自分だけが不幸だとか、孤独だとか思いはしなかった。

  幸いなことに、11時発の福岡行きの便がとれる。 とんだことで、はじめての飛行機旅行と
  なってしまった。 天候はよい。 三浦半島、富士山、浜名湖、伊勢湾などがはっきりと
  眺められる。 大阪に一旦降りる。
  瀬戸内海は雲間から垣間見る程度。 しかし広島以西は晴れている。 佐多岬と九州の山々、  
  国東半島。 あの方向に飛んでいければ・・・と思う。
  「主、与え。 主、取り給う。 主の御名は、誉むべき哉」そんな感慨をもって、九州の
  土を踏む。 −−−−−

  やはりダメだった。 「ママンが死んだ!!」 ぼくは泣いた。 美しい顔だった。
  母らしい死に方だったと心から思う。
  K16 ちゃんと過ごす夜。
  聖書:ヨハネ福音書、ラザロの復活の個所を読みながら、線香を絶やさぬようにと気を配り
  つつ。

  弟の進学だけは何としてでも挫折させたくはない。 そしてできることなら、ぼくの仕事も
  中断させたくない。 今の仕事に、こんなにも愛着を感じているとは! しかし「もし一粒
  の麦が死なないなら・・・」という福音書の言葉が −−−−− ずっと数日間、いつも朝
  目覚めて、弟のことを考える時、ぼくの気持ちを弱くさせた。

  赦祷式は、日曜日の午後、とり行われた。 参列者が 50名ほど、いやもっとあったように
  思う。 聖水をふりかける時、さすがにママンの顔、その笑った顔が涙を誘った。

  埋葬は美しく行われた。 おそらく火葬より、数段、美しかったろうと確信する。

      仕事でずっと遅くなり、このメモも中断する。
     28日は、編集ルーチンのデータを通すため、8時半まで、
     そして、29日は一括関係の Detail Flow Chart を、O6 さんと書いて、
     9時半まで超過勤務をする。
     全くよく体がもつと、我ながら驚く。 さて、話を戻そう。

  埋葬の後、精進落しという仏式の習慣に従う。 考えてみれば、今度はカトリックと仏式の
  混在になったが、止むを得ない。

  電話の一報を受けて、すぐに寮を出発しました。
  同じ寮の O7 さんが、東京駅まで一緒に居てくれました。  
  O7 さんは本社の同じ課の人で、普段から何かと親切に
  してくれていました。

  交通公社で航空機の手配をしたところ、福岡行きに空席が
  あり、それを利用することにしました。 大阪空港を経由
  する便です。

  福岡から列車で別府に向かい、夕方、実家の近くの停留所
  で待っていた妹を見つけました。
  ここで「昼前に死んだ・・・」と聞かされたのでした。

  「きょう、ママンが死んだ。」―― カミュの「異邦人」
  の冒頭のフレーズを、強烈に思い起こしたのでした。

  明け方、トイレに起きて突然倒れ、そのまま意識が回復す
  ることもなく、昼前に亡くなったとのこと。 脳溢血と
  診断されていました。 49歳でした。

  K16 ちゃんは、母の弟で、前年の長兄に引き続き、今回は
  姉を失い、4人兄弟でひとりだけ残ったのです。
  私とふたり、一晩中、遺体のそばで一睡もせずに過ごした
  のでした。

  私は、自分が中学卒業後すぐに就職したこともあり、弟に
  は、何が何でも高校進学をさせたいと願っていましたが、
  それが自分の今の仕事と両立できない場合を考えると、
  やはり自分を犠牲にせざるを得ないのか?と悩んでいたの
  です。

  いわゆる葬儀(赦祷式)は、日曜日の午後、教会の聖堂で
  行われました。
  当時のカトリックでは、火葬と土葬のどちらでもできまし
  たので、私は躊躇なく土葬を選びました。(現在は、教会
  墓地の事情からみても土葬は殆ど不可能)

  ただ、土葬を選んだために、周囲の人々、とりわけ前の職
  場の人々の手を大変煩わせる結果となり、今にして思えば
  申し訳ないことをしたという思いを深くしています。
  土葬のための「墓掘り」職人がいないだけに、S2 君を
  はじめ、大勢のかつての同僚の皆さんに大変なご苦労を
  お掛けしてしまったのです。
11.18

  18日の朝、父のことで、四国の親戚より申し出がある。
  ぼくとしては今すぐに父が引きとられることには、ややためらいと、思い切りの悪さを
  感じだが、致し方ないだろう。
  いずれは、頼まねばならないことなのだ。
  夜の船で見送る。 雨が降っていた。

  実は、実家では、数年前から父が脳溢血で寝たきりで、
  母が働きながら看病をしていました。
  そこに中学生の弟と、小学生の妹、そして73歳の祖母
  (母の養母)がいたのです。
  父の妹さん一家から、この状況を見かねて、父を引きとる
  申し出があったのです。
  大変申し訳ないことではあったのですが、ご厚意に甘える
  ことになりました。
  弟・妹のことを思えば、その気持ちを十分汲んであげられ
  なかったという気持ちが私には残りました。
11.19

  19日、20日と市内のあちこちを回って、お礼のあいさつや、支払いや、事務的な手続きなど。
  夜は夜で、前の職場の人達や、I8 さんらが来て話しこむ。
  T3 さんより手紙をもらう。 数多くもらった電報にも増して、これが一番嬉しかった。
  普段、無口な彼だが、この友情には心から感謝したい。

  I8 さんは、前の職場の近くの郵便局窓口の女性。
  T3 さんは、独身寮で同室の同期生の彼のことです。
11.20
11.21

  21日、入院中の I7 さんを見舞う。
  夜、サントリー・バーで、初めて飲む。 西君の恋愛について知る。

  彼の助けになればと思い、22日、K17 さんと会う。
  しかし、すでに相手がはっきりしている以上、どうしようもないではないか。
  彼に、泣け!とも言えず、二人で2時まで飲む。 全くつらいことだ。
  なお、昼間に S16 さんを訪れ、夕方、K18 さんにフグをご馳走になる。
  お二人には散々お世話になり、感謝の気持ちでいっぱいだ。

  I7 さんは、小学生からの同級生で、16日に電話をして
  下さったのは、そこの奥さんでした。
  あちこちへの用事も一段落し、夜はなじみのバーで西君と
  一息つきたいと思ったのです。 ところが西君は交際相手
  の K17 さんとうまくいっておらず悩んでいることを知り
  ました。
  お節介にも翌日 K17 さんに会いましたが、彼女はすでに
  別の相手と深い交際をしており、西君とのことは終わって
  いたのでした。
  S16 さんは以前の上司で、K18 さんはご近所さんですが、
  ずっとお世話になりっぱなしの兄貴分です。
11.22
11.23

  23日、ちょうど一週間目なので、三人で墓参に行く。
  ロザリオを一環、唱えて祈る。
  帰りに浜脇中学でブラスの練習を聴く。
  発足後、まだ短期間の割にはよくやっている。
  弟の音楽熱は嬉しい。

  午後、ばあちゃんをタクシーで墓参に連れていく。 これが最初で最後になるのではない
  だろうか? とふっと思う。

  夕方、紅葉寮と小百合愛児園を訪れ、ささやかな金額だが贈る。 ママンも喜んで
  くれると思う。

  弟・妹と教会墓地に行きました。 土葬の場合、数年は
  墓石を建てることができず、木の十字架だけを立てて
  いるのでした。(盛り土が落ちつくまで)
  弟の中学校に立ち寄り、所属しているブラスバンド部の
  練習を見学しました。 指導していた教師は、偶然、
  私の中学時代の同級生でした。
  祖母を墓地に連れてきました。 急坂のある墓地なので、
  そうは来れないだろうと思ったのです。 帰り際、祖母
  が、母に「もう帰るよ」と話しかけたのが印象的でした。
  普段は、必ずしも仲のよい関係ではなかったのでした。
  紅葉寮はカトリック系の養老院、小百合愛児園は同じく
  孤児院でした。 そこのシスターたちのことを母はよく
  知っていました。 それで些少の寄付をしたのです。


Top Page に戻る   1963年一覧 Page に戻る   次の週へ