カトリックの 『葬式宗教度』 を問う


日本の仏教が「葬式仏教」と揶揄されていることは周知のことですが、実はカトリックの典礼の中心である
毎日曜日の 『ミサ』 でも、日本の場合、それと似た現象が発生しています。 次の事例をご覧ください。



これは私の所属する甲子園教会での 2016/5/15 から半年間の日曜日のミサでの故人の名前を具体的に
明示して
行われた事例の記録です。 空欄は私がその日のミサを欠席しており、当日の状況は不明です。


さて、仏教が亡くなった方々の供養を中心にした信仰生活を重視?している現状から、『葬式仏教』と揶揄される
ところですが、上記の実態を見ると、日本のカトリック教会でも似たりよったりの日曜日の礼拝(ミサ)になって
いるのでは? ・・・ と懸念される気がします。

かつて、遠藤周作は、小節 「沈黙」 の中で、拷問に耐えかねて転んだフェレイラ神父に

   キリスト教の神は、日本人の心情のなかで、いつか、神としての実体を失っていた

と 「日本の宗教的雰囲気・特徴」 を語らせていました。 これは、現代のカトリック教会にも当てはまるキリスト教の
日本化(土着化)の一例なのでしょうか?

そこで、この点について甲子園教会の主任司祭に質問をしてみました。
主任司祭は次のようにメールで返信をしてくれました。(原文のままペースト)


     ミサの事で、お尋ねですが、あなたの言われるように、主日は、その時の意向で捧げるものです。
     でも、その主日にしか、ミサに参加出来ないも多いのです。司祭は、その日の意向に捧げていますが、
     現実は、皆さんは、日曜日にしか、ミサに来られない方が多いのです。それで、ミサの中で、死者の方への
     祈りの中で、その方の意向を捧げています。
     ミサに参加されている方の思いも一人一人違います。それぞれ、ひとり一人の思いを、今日のミサの心を通して、
     お受けくださいますようにと、祈っています。
     そのミサが、その方のために、捧げているのではなく、その日の意向にみんなで祈っていますが、亡くなっ方の思い
     にも、祈りますと言った心ではないでしょうか。


私はこの見解に全面的に賛同することはできません。 それは日曜日のミサとは、そもそも何なのかというカトリックの伝統的な
認識をまずは確認しておく必要があると考えるからです。

私がこどもの頃に学んだ『公教要理』という小冊子は、ミサについて次のように記しています。

   427 ミサ聖祭とは何でありますか。

      ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下にましまし給う
      イエズス・キリストの御体と御血とを、聖父ちちささげる祭りであります。

   432 ミサ聖祭を献げる目的は何でありますか。

      ミサ聖祭を献げるのは、1.神を礼拝し、2.その御恩を謝し、
      3.罪を贖い、4.御恵みを求めるためであります。

   433 ミサ聖祭にはどのような功力がありますか。

      ミサ聖祭は、聖父に無限の光栄を帰し、且、十字架上の犠牲の功徳を、
      この世の人と煉獄の霊魂とに施すもので、その功力には限りがありません。

ここから分かることは、「功徳を煉獄の霊魂に施す」という要素もあるのですが、それは決して
メインの目的ではなく、むしろイエスの最後の晩餐を記念しつつ、神の栄光をたたえる『礼拝』の
祭儀だということ。
神への賛美と感謝こそがメインであり、恵みを願うことは中心的事項ではないのです。

つまり、日曜日のミサは教会の公的な祭儀であり、個々の信者の「願い事」を中心に据えてはいない
ということが、(少なくとも、現在の教会においては) はっきりとしており、死者のための(鎮魂)ミサ
とは、一線を画しているのです。 平日のミサでは、特定の死者の冥福を祈るというが普通に
行われています。

もう少し、確認をしたくてカトリック大阪大司教区にも照会をさせていただきました。
次のようなご回答を頂戴することができました。


   おっしゃる通り、主日のミサは「ミサ・プロポプロ(小教区共同体全体のため)」であります。
   そのため、主日のミサを特定の個人のためだけにささげることは避けるべきです。
   しかし司祭はそれぞれ独自の見解を持っていましたので、大阪教区としましては
   ある一定の見解を過去に出させていただきました。

   大阪教区では全司祭に「司牧者の手引き2016」をお渡ししております。
   以前の版である2009年度版からも変更はございませんが、
   そこで池長司教様の手紙が載せてあり、
   「主日ミサでの個人の意向の扱い方」(2016年度版では18〜19ページ)が記されて
   います。
   その中で『主日のミサを特定のためだけに捧げることを避ける。』とし、
   『一方で、個人も共同体の一員であり、当然その個人の意向も共同体全体の中の一つ
   として祈ることができる。
   従って、主日のミサで個人の意向がある場合、それも受け付けることはできるが、
   その際、個人のミサでないことをはっきりさせる。
   なお、必要であれば司祭は主日とは別に平日のミサでそれらを別途捧げる。』と
   なっています。

   つまり、主日のミサではみんなのミサであることを示し、個人の”意向も”示すこと
   はできます。
   個人の”意向だけ”と特定しているかどうかがポイントであろうと思います。
   そして別日にその意向のミサをささげていれば、主任神父は言い訳はできるわけです。

   多くの例を紹介しますと、ミサの最初にお名前を呼ぶ、共同祈願でその方を祈る、
   記念唱では名前を呼ばない。
   というのが一般的であり、あとは主日に2回ミサがある場合は、そのどちらかを
   ミサ・プロポプロにする。
   出された意向の方々の名前を数件まとめてすべて読み上げ、その週に更に祈る。
   という形で皆さん対応されています。

   ミサの中でお名前が呼ばれることは、状況に応じていた仕方がないときもあり得ますが、
   そのフォローがなされているかを、前司教は徹底しようとされました。


私自身の体験からいっても、弟の遺骨の埋葬に先立つミサは、大分県の別府教会で土曜日の夜の
ミサに合わせてお願いしましたし、その少し前の父母の〇〇回忌のミサも、当時の主任司祭の
助言をいただき、平日の午前に親類縁者の出席を得て行った経緯があり、これが、現在のカトリック
教会での標準的なスタイルだと理解しています。

主日(日曜日)のミサの 中心的な場面で、あえて特定の故人を追悼する ことはやはり教会の描く
ミサの姿とは程遠い姿だというのが、私の「主日のミサ」に対する認識です。

いくつかの教会でも見られるような「共同祈願」の中で、その日(あるいはその週)に祈念する死者の
名前を読み上げ、冥福を祈るといったあたりが、妥当なところだと思うのですが、いかがでしょうか?

ここで、福音書の一節を思い起こします。

   マタイ8章21,22節

     ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
     イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

信者の信仰の活動は、教会内部に閉じこもることではない。 むしろ社会に向けて(とりわけ社会の底辺に
置かれた人々に向けて)実践されることこそが、日本のような宣教地においては、何にも増して大事なこと
ではないか!
インドでのマザー・テレサの「あの地での見捨てられた人々へのまなざし」とその実践こそが、キリスト教を
キリスト教らしく社会に示す 『力ある宣教』の姿 だと思えてなりません。

2016/11/30

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