福音書の読み方:私見


日本人男性の平均寿命(正確には0歳児の平均余命)は、79歳台だといわれます。
今年の誕生日で79歳になる私は、いよいよ最終トラックに入ると覚悟せねばなりません。
まあ、人生の苦楽を十分に味わったという感慨もありますので、そろそろ店じまいをするのも、
ありかな・・と思い始めた年始です。

さて、昨日は「主の奉献の記念日」でした。福音朗読はルカ福音書2章22節からの個所で、
主イエスの神殿での奉献を記念する祝日です。
この行為の直接の背景は、律法(レビ12章。出エジプト13・11-16も参照)にあるとのこと。
出産した母親が産後の清めの期間の40日が過ぎたときにする、献げ物の規定です(ルカ2・23-24)。

ミサの説教の終わりに、主任司祭は「この後、ヘロデによる嬰児殺害が起こる・・」と話して
いましたが、これは変な話でしょう。(^_^);
もし、聖家族の三人がナザレに戻った後に、マタイ2・16以下の暴挙を行ったとすれば、
聖家族のエジプトへの避難は必要なかったはずです。

私が言いたいのは、ルカの物語と、マタイの物語とを組み合わせて読むことは不適当だと
いうことです。主任司祭は2つの物語を同じ次元で連続した物語として読もうとしています。
そうすると、福音書相互間の食い違いが起こって、「聖書の記述は信用できない」という非難の
恰好の標的になってしまいます。
そもそも典礼暦においては、「幼子殉教者」はクリスマスの直後に記念されていて、主任司祭のいう
ような順番とはなっていません。「主の降誕」と「幼子殉教」とはセットで記念されるものです。

4つの福音書は、互いに独立した書物であり、これを組み合わせてひとつの物語として受け止める
ことには無理があります。互いに矛盾する記述もあり、無理に整合性をとるための屁理屈
考え始めるとおかしなことになります。
4つの福音書は、それぞれの著者の所属する信仰共同体の認識・著者の信仰体験がベースになっており
そういう状況が福音書記述に反映していると考える方が、はるかに素直な読み方になります。

つまりこの例でいえば、ルカ(の属する信仰共同体)は、「幼児殉教」の伝承を知らなかった。
マタイ(の属する信仰共同体)は、「エジプト逃避」を旧約の預言の実現として認識していたと
考えればよいわけで、当時の信仰共同体が(現在の様に)複数の福音書を利用していたと考える必要は
ないということです。

私たちは、「福音書は4つ」「新約聖書は27の文書からなる」ということを当然のこと
受け止めていますが、そういう形が決まったのは4世紀になってだと言われています。
それ以前のキリスト者にすれば、自分の属する共同体がその時点で所有していた文書(と口伝)だけが
自分たちの信仰の源泉であり、私たちとは相当に違った状況に置かれていたわけです。

いいたいことは、こうです。
・聖書の個々の文書は、それぞれ書かれた時期と場所がばらばらで、それをまとめて読む状況になった
 のは、かなり後になってからだということ。
・したがって、複数の文書を比べて、ここが違う・矛盾していると批判しても意味がないのです。
・逆に、複数の文書の内容を互いに補完しあって、本当はこういう順番や内容と考えるのが正当だと
 言い張ることも必ずしも正しい見方だとはいえません。

昨日の説教についていえば、「この後、嬰児虐殺が起こった」という説明は正しくもないし、意味もないのです。

実はこういう余計な解釈・説明は、いろいろな場面で行われており、例えば、
  イエスの復活した朝の記述では、3つの福音書で次のような違いがあります。

  ・マルコ福音書:16章5節
     墓の中に彼女らは、右手のほうにまっ白な長い衣をまとった若者が
     座っているのを見て、非常に驚いた。
  ・マタイ福音書:28章2節
     すると、大きな地震が起こった。それは主の使いが天から下って
     石に近づき、それをわきへころがして、その上に座ったからである。
  ・ルカ福音書:24章4節
     それで彼女たちは途方に暮れていた。すると、まばゆいばかりの衣を
     着た二人の人が、彼女たちのそばに現れた。

フランシスコ会聖書の注解では、マルコの個所に「天使のこと(マタイ28-2参照)」、ルカの個所に
「人の姿をした神の使いで、23節に出る『み使いたち』と同じ」と記述されています。
婦人たちが見たのは何者か、一人か二人かを巡る食い違いを、ご丁寧に説明しようとしているのですが、
これは適切なことでしょうか?

4つの福音書(他にも正典に含まれない「○○福音書」といったものがあります)の間の食い違いを、こういう
形で説明しようとする試みに、私は違和感を覚えます。
それぞれの著者(と、その信仰共同体)が当時、認識していた伝承がそのまま記されていたと考えれば、
「実は、真実はこうだったのです」と後の時代の人が口を挟むのは、適切とは思えません。
まして、マルコの記述は間違っている・・などと否定するのは、的外れな議論です。

それぞれの著者は、それぞれの環境の中で、それぞれの文書を執筆しているのです。
そこから、その人々の信仰を読み取ることができるのであり、他の文書を使って、「本当は○○だった」と説明する
必要などないのです。

<おまけ>
今年になって、面白い本を読みました。
溝田悟士著「『福音書』解読」(講談社選書メチエ)

  信仰の立場からではなく、著者の専門の「言語学」の立場から、
  「なぜ、複数の福音書が書かれたのか?」という課題を追求した
  ものです。
   

決して、キリスト教批判をしているのではなく、あくまでも学問的な立場からの記述で、逆にそれが素人の私には
なじみにくい・解釈困難な内容に見えるというのが、正直な感想です。
しかし、それぞれの福音書著者が、単に「イエスの教えと生涯」を記述したというのではなく、プラス、著者の信仰の
指導者であった信仰の先輩(マルコにとってのペトロ、マタイにとってのヤコブなど)の壮絶な信仰の歩みを、それに
重ね合わせて執筆しているのだ・・と解釈すると、それぞれの著者が「異なる『福音書』を残す」ことになったのは、
もっともなことだと、妙に納得できたのです。

福音書を読むとき、互いの矛盾に苛立ったり、別の福音書を援用して補足説明することが、必ずしもよい読み方だ
とはいえない、
それぞれの著者の信仰体験(先輩からの影響なども含めて)が、それぞれの福音書を書かせているのだと素直に
受け止める方が、はるかに適切なのだと気づいたのでした。

2014/2/3

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