不如意への「耐性」


私・個人にとっても、今年は「思うにまかせない」出来事の多い一年でした。
そんな折、2013.11.17 日付の「毎日新聞」書籍紹介欄に掲載されていた、
「おとなの背中」(角川学芸出版)の著者:鷲田清一さんの紹介記事は印象に残る
ものでした。


   冷戦崩壊でイデオロギーの時代は終わったといわれるが、
   逆にイデオロギーは強まっているという。
   サスティナビリティ(持続可能性)、安心・安全、情報公開など
   「誰も正面切って反対できない」流行の言葉に潜んでいる。
   例えば「多様性」が称揚されるのに、なぜ多重人格は認められ
   ないのか?
   「これらの言葉を出せば、それ以上議論できないという意味では
   閉塞感の原因にさえなっています」

   執筆時期は(東日本大)震災の前後にわたるが、ぶれないまなざし、
   主張の一貫性に驚かされる。
   「自立」とは、他人に依存しない独立(independent)ではなく、
   「いざというときに相互依存的(interdependent)な仕組みを生かせる
   ようにしておくこと」。 震災前に記したこの論も、一層重く響く。

   タイトルは、人生の中で「大人でも子供でもない期間」が長くなり、
   「自分が大人か子供かはっきりしない人が多くなった」日本の現状を
   反映している。

   「かつては場数を踏み、痛い目に遭う体験を通して、生きていくのに
   不可欠な『見極め』がつく大人になりました。
   子供もさまざまな職業の大人を見て、生き方を選択できた。
   ところが今は失敗する可能性があらかじめ排除され、大人の仕事にも  
   多様なイメージを描けません」

   「人口減少時代に入り、物事のスカットした解決は難しい。
   思い通りにならない現実への『耐性』が必要です。
   大人たちは、たたずまい全体からにじみ出る生き方のモデルを後の
   世代に示すことが求められています」。



以上の言葉を参考にしつつ、今年のカトリック教会の出来事を振り返ってみたくなりました。


1)教皇ベネディクト16世が、生前退位という 500余年ぶりの<稀なる行動>をとり、
  フランシスコ教皇が誕生しました。
  前回の「教皇退位」は、三人の教皇が同時・並列的に在位するという<異例の事態>を
  解消するために起こったことで、今回とはまるで事情が異なります。

  ベネディクト16世は、誰からも退位を迫られる状況になかった中で、「汝我が小羊を牧せよ、
  我が羊を牧せよ」というイエスからの付託を自ら<放棄>したと見られます。
  (「公教要理」第139番)

  ここのところが、私にはどうしても腑に落ちないのです。
  ベネディクト16世を選出した「コンクラーベ」の直後に、「枢機卿たちは、最悪の決定を
  した」と発言なさった日本人司祭がいました。 当時、私はその意外な発言に驚きましたが
  結果的に、それは『正鵠を得た』ものであったのです。

  映画「ローマ法王の休日」では、新しく選出された教皇が、バチカンから姿を消してローマの
  市中に身を潜め、最後は「教皇職受任を拒む」ことを暗示するような終わり方をしていました
  が、あれはベネディクト16世退位の<予兆>だったのでしょうか・・・・

  世の中が、自分の思い描いた通りには『いかないもの』だということは、誰の目にも明らかな
  ことです。 そういう『思い通りにいかない事態』を、私たちは子供のころからたくさん体験
  してきました。 否も応もない「現実」でした。

  現代という社会は、「自分の思い通りに展開する」と『錯覚』してしまうほどに、いろいろな
  事前準備や防護策が重要視される世の中になりました。
  それはそれで良いことではあるのですが、それがかえって人々に「意のままにならぬ事態」
  つまり『不如意』への備えを忘れさせるという結果をも生み出しているのではないかと、
  私には思えてなりません。

  世界は「私の都合」など意に介さない! 私の思いとは関係なく展開するものだという認識が
  人々の日常生活から失われていることが、現代人の「ひ弱さ:耐性のなさ」を生み出す原因
  になっているのだと思います。
  それは、上は教皇から、下は私たち一人ひとりまで、おしなべて陥っている『勝手な錯覚』で
  あったというべきなのでしょう。

2)第二バチカン公会議閉会から50年の「信仰年」を巡って、私は東京教区の稲川神父様の文章を
  批判的に取り上げました。

  一方、その後、「聖書と典礼」2013.12.1 号に掲載された岩島忠彦神父様の文章では、全く違った
  視点からの意見が記されていました。

     公会議が示した基本的方向性は、何といっても「開かれた教会」という大局的見方でしょう。
     従来、教会は自分を救われた者の集いと見なし、いわば「閉じられた園」とする傾向が
     ありました。 公会議はこの姿勢を180度転回し、教会はこの世の救いを実現する神の道具
     であるとしました。 この世界のために教会は存在すると。

     神さまの救いの業は、教会に限られているのではなく、全世界に及んでいるということです。
     神さまの働きの現場が世界であるのに、教会がこれに手を貸さない。 内に閉じこもるという
     わけにはいきません。

     このような信念は、私たち一人ひとりにとって何を意味するのでしょうか。
     身近なものから始まって私たちの生活の場すべてが信仰の場であるということでしょう。
     この世で何をなすべきか ―― それは一人ひとり異なり、自分で問い続けるほかありません。

  ここには、稲川神父様のような「神の民自らが母なる教会となることを目指すべき」といった、
  内向きの目線とは全く違った方向性が示されています。
  そして、一人ひとりの信者が自分の周りに「語りかける」とき、これまでのように「教会がこう教えて
  いる」とか、「聖書にこう書いてある」といった<予め誰かが準備してくれたもの>を、そのまま口に
  するだけでなく、併せて自分の見つけたこと・共感したことを、自分の言葉で人々に提示する。
  思いがけない人々の反応があっても、それを「世間でよくある『不如意』のひとつ」として、それに
  自分の力で対処していく術を身につけるようにしなさい! という呼びかけだと、私は受け止めました。

世の中が、あるいは周囲の人々が、私にとって思い通りに展開するのが当然と考えるのは、とんでもない
思い上がりでしょう。 思い通りにはいかないのが「此の世の常」、それに自分の力でどう対応していくか?

これが、私のこの一年間の『総括』だと、強く思い知らされたのでした。

来年、私は79歳を迎えます。 日本人男性の俗にいう「平均寿命」79.9歳に到達します。
(厳密には、79.9 は、新生児の平均余命ですから、79歳の男性にその数字を当てはめるのは不適当)
いずれにしても、『自分の終末』を常に念頭に置いて、「意のままにならぬ日々」を耐える力を持ち続け
なければと、思いをあたらにしている年末です。

2013/12/18

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