新教皇への期待?
新教皇への期待?


フランシスコ教皇の動向が、いろいろと報じられ、期待感が高まっています。

2013.10.20 の『聖書と典礼』に、東京教区の稲川保明神父の文章があります。

   新教皇はとにかく型破りという形容詞がぴったりです。
   つい昨日まで、ブエノスアイレスの教区長という現場におり、立派な大司教館は
   貧しい人たちを収容する施設として明け渡し、自分はアパートを借りて自炊で生活し
   庶民と同じく地下鉄やバスに乗って、スラムに赴き、ミサを捧げ、子どもたちに教えて
   いたなど。
   またバチカンでの教皇としての仕事が始まってからも相変わらず枢機卿宿舎で生活し・・・
   など、次々に入ってくる新教皇の人柄に関するニュースは私たちにも新しい息吹を
   感じさせてくれました。

   たった一人、教皇が変わっただけでも何かが変わり始めています。
   私たちも一人ひとりが変われば何かが変わると教えられた気がします。

私が毎週受信している『世界キリスト教情報』にも、新教皇の動向が収録されています。
そこからの情報でも、同じような傾向を読み取ることができます。

   2013年9月16日 第1182信

   教皇『無信仰でも良心を守れば神は慈悲を』

   【CJC=東京】「神を信じなくても自分の良心に従えば、神は慈悲を施すだ
   ろう」。教皇フランシスコは9月11日、イタリアの日刊紙『ラ・レプッブリカ』
   に送った書簡で言明している。

   書簡は非信者の霊的状況を、明快、率直に評価している。「救い」の問題を唯一
   裁定する制度について、教皇は、罪、良心、赦しがカトリック教会の占有では
   ないという考えにドアを開いたように見える。
   スカルファリ氏は、教皇に「信じず、信仰を求めない人をも神は赦すか」と質問
   した。教皇は、信じない人でも神の赦しから外されてしまうわけではない、と
   答えの中で示唆した。
   教皇は、「真心と懺悔の心を持てば、神の慈悲には限界がない。信仰がない人
   にとって、問題は自らの良心に従うこと」と述べた。そして、「無神論者たちは、
   良心に外れる行動をする時、罪を犯すことになる」とし、「良心に耳を傾けて
   それに従うことは、善と悪を分けて判断するという意味だ」と述べている。
   教皇にとっては、「関係というものなしに」存在するというのなら「絶対的な
   真理」といったものは存在しない。
   「真理は、キリスト教信仰によれば、わたしたちの為の、イエス・キリストに
   ある神の愛だ。だから真理は一つの関係なのだ」として教皇は「遅さ、無信仰、
   過ち、罪をメンバーに対し犯してきて、今も犯しているにしても、教会はイエス
   と共に生き、イエスを証しする以外に意義も目標もない。わたしを信じてほしい」
   と述べている。


   2013年9月23日 第1183

   教皇がイエズス会の雑誌に『本音』?

   【CJC=東京】教皇フランシスコは、所属する修道会イエズス会がイタリア
   で発行する雑誌『チビルタ・カットリカ』とのインタビューに応じた。同誌は9
   月19日発売されたが、同時に各国のイエズス会系雑誌にも翻訳が掲載された。
   誌上では30ページを超えたインタビュー、質問は多方面にわたった。
   教皇は、教会が何よりも「傷を癒やせる」存在でなければならず、教会が認め
   ていない行為に対しても、より深い同情と理解を示すべきだと指摘、「教会は、
   心狭い取り決めにこだわるべきではない」と述べた。
   「異なる意見への非難を超え、思いやりを強調すべきだ」とし、社会的に対立
   のある問題でより柔軟な姿勢をとる考えを示した。
   「常に個人個人のことを心に留めておく必要がある」と強調した。
   教会を「野戦病院」のようなもの、とたとえ、教皇は「重傷を負った人に、コレ
   ステロール値や血糖値を尋ねても無駄だ。まず傷を癒やすべきだ」との比喩を
   用いて、細かい規則にとらわれるより、救いを求める人に慈愛の心で接すること
   が重要だと指摘。その上で、「規則と慈愛の間に新たなバランスを見つけなけれ
   ば、カトリック教会の全道徳体系がトランプで作った家のように崩れ去ってしま
   う恐れがある」と述べた。

   教皇は、率直に自らを「一人の罪人」と語っている。「最も正確な定義だ。
   比喩的な表現ではなく、文字通りだ。わたしは罪人だ」と言う。
   インタビューの最後で、教皇は「過去や予想出来る将来に神を求めようとする
   誘惑」について語り、「神は確かに存在していたのは、その足跡を見られるからだ。
   そして神は将来に、約束として存在する。
   しかし「実在」の神は、言ってみれば、今日存在する。
   それだから、不満を言うことは、神を見出す助けには決してならない。
   「粗野な」世界についての今日の不満は、教会の中に、防衛策として、
   純粋保守の感覚で秩序を設けたいという欲望を生み出すことになってしまう。
   そうではない。神は今日の世界に向き合っておられるのだ」と語った。

   インタビューは、『チビルタ・カットリカ』、英国の『シンキング・フェイス』、
   米国の『アメリカ』など3誌の要請によるもので、『チビルタ・カットリカ』誌
   編集長アントニオ・スパダロ神父がこの8月、教皇の居宅『カーサ・サンタ・マ
   ルタ』で3回、延べ6時間行った。
   各誌のスタッフが用意した質問をスパダロ神父に送り、同神父がそれをまとめ
   て、教皇にインタビューした。
   インタビューはイタリア語で行われ、記録が公式に認められて、5人の専門家
   が英語に翻訳、それを『シンキング・フェイス』と『アメリカ』は掲載した。


毎日新聞 9/20 朝刊にも、このニュースが報じられていました。

   法王 教義押し付け戒める

   フランシスコ・ローマ法王は19日、同性婚や人工妊娠中絶・避妊に反対する教義の
   押し付けに走りがちなカトリック教会の態度を戒め、傷ついた弱者を癒やす「野戦病院」
   となるよう訴えた。
   また、教会における女性の役割を重視し、意思決定に女性の意見を反映させる考えを
   示した。

   今年3月19日の就任から半年にあたり、出身修道会イエズス会の月刊誌のインタビューに
   答えた。教義に修正・変更を加えたわけではないが、前任ベネディクト16世時代までの
   教義に厳格な「父なる神」から、人々を慈悲で包み込む「母なる神」への路線変更を
   鮮明にした。

   世界約12億人のキリスト教カトリック信徒の頂点に立つ法王はインタビューで「(教会が)
   中絶、同性婚、避妊に関することだけを言い張っているわけにはいかない」と指摘。
   カトリックの伝統的な教義と、現代社会が抱える課題への対応の間で「バランスを取らなけ
   れば教会の道徳的な体系は、カードで作った家のように崩れてしまう」と警鐘を鳴らした。

   女性については「重要な決定を下す場合、女性の才能が必要だ」と強調した。


19日付けのインタビューに関する2つの記事に、私は大変興味を持ちました。
2つの記事での『表現・用語』が異なり、教皇のことばがどういうものであったかを読み切れない
もどかしさがあるのですが、

   ・毎日新聞にある「同性婚・・・」という具体的な例示が、キリスト教情報の方では
    避けられています。 後者の編集部が、あえて具体例の引用を避けたと勘ぐってしまう
    のですが、そうだとすれば、それが現在の日本のキリスト教の現状かもしれません。

   ・「父なる神」、「母なる神」という表現を、教皇ご自身が用いたのかどうか?
    私は疑問を持ちました。 この言葉ですぐに思い浮かべるのが、遠藤周作さんの
    作品です。 日本人にはピンとくる用語ですが、果たして教皇がそういう単語を使用
    なさったのかどうか? そうであれば、遠藤神学の欧米での評価の高さが伺えますが
    あるいは、毎日の記者が、日本人読者を意識して用いただけなのか?

ということで、インタビュー記事の<全文>を読んでみたくなりました。

話は全く違いますが、数年前『ローマ法王の休日』という映画がありました。
新しい教皇に選出された枢機卿が、「私は <導く者ではなく、導かれる者だ> 」と言って
教皇への就任を躊躇し、数日間、ローマの市中に身を隠すというストーリーです。
人々の生の姿・生活を体験して、バチカンに戻る場面で終わるのですが、推測するに
主人公は、教皇就任を拒み、ローマを去っていく・・・という展開を予想してしまいました。
私は、この映画を見て、教皇職の重さを改めて認識すると同時に、<導く者ではなく、
導かれる者だ> というのであれば、司祭となり、司教となり、枢機卿となったことを
どう考えているのだろうか?という疑問を抱きました。
司祭・司教・枢機卿としてなら<導く者>として、信徒に対峙できる。しかし、教皇としては
それができない・・・そんな覚悟の人物に、信徒である『私』は<司牧>されているのか?
という疑問でした。 もちろん映画の話ですから、こういう疑問は意味がないのかもしれません。
とにかく、本当に司祭職・司教職にある方々は、どのような意識で信徒に立ち向かっているのか?
私が新教皇から受ける印象は、そこのところで、大変な<覚悟>を示しておられるように思います。

教皇の動向に、しっかりと目を向けたいです。 そのためにも、キリスト教系の情報提供者の
しっかりとした編集方針が期待されます。 信徒に与える情報を「ぼやかして」しまうようでは
教皇の真の姿・発言の真意が見えてこないからです。

2013/10/22

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