『信仰年』公会議50年:その2


信仰年がスタートしました。

今週の主日のミサの説教で、主任司祭はそのことを説明しましたが、その中で『聖書は勉強
するものではなく、そこから神の望みを読み取ることが大切』という趣旨の話をしています。
これは主任司祭のお得意のフレーズで、これまでにも何度も聞かされたことですが、そのたび
に、私は違和感を覚えているのでした。

信仰が、単に頭で理解するものでないことは、私も十分に承知していますし、私の信仰も頭で
受け止めただけのものとは思っていません。
しかし、だからといって、自分の信仰がイエス様のメッセージをきちんと受け止めているかどうか
の点検は、決して疎かにしてはならない・・・とも真面目に考えています。
『神の望み・イエス様の真意』を、思いこみ(だけ)で受け止めてはならないという信念があるからです。

ところが、主任司祭はそういう私の信仰理解がお気に召さないようで、主任司祭との話はかみ合わない
ままに推移しています。(^_^);

   私は 1980 年代に、カトリックのカリスマティックな活動に参加していました。
   第二バチカン公会議以降の教会にとまどいを覚えていた私は、自分の信仰の見直しをしたくて
   当時、東京・初台教会での『聖霊による信仰刷新』グループの『祈りの集い』に参加したのです。
   『公教要理』をベースにした信仰が疎かにされ始めた当時の教会のありように疑問を覚えたこと
   が、最大の理由でした。
   それまでの私は、『公教要理』で学んだ内容と、それを教えてくれた教会の司牧という仕組みを
   自分の信仰のベースに据えていました。

   ところが、第二バチカン公会議の公文書は、信者ひとりひとりに自らの判断をするよう促すという
   新しい道を示唆したのです。

   一例として、『現代世界憲章』の次の個所をあげたいと思います。
   それは『現代世界憲章』43項の中の一部分です。


    信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者 が何事にも精通
    していて、どのような問題についても、しかも重大な事がらについても、
    即座に具体 的解決策をもちあわせているとか、それがかれらの使命である
    かのように考えてはならない。むしろ 信徒はキリスト教的英知に照らされ、
    教権の教えに深く注意を払いながら、自分の責任を引き受けるようにしな  
    ければならない。

    キリスト教的なものの考え方に従って、ある状態におい て、ある特定な解
    決策を選ぶということがしばしば生ずるであろう。他の信者は同じくまじめに    
    考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すということもたびたびあり、
    それもまた当然なことである。
  

   つまり、信徒は司祭なり教会の組織の発言にすべてを期待したり・追従するのではなく、
   『自分の責任を引き受ける』ことが求められるようになったということです。
   これによって、従来の『母なる教会』への全面依存ないし追従ではなく、信徒は
   自らの営みによって、自分の信仰・自分の生活・自分の歩みを切り拓いていく
   権利と責任を有するようになったということです。

   そういう方向性の中で、私は『祈りの集い』に参加したのですが、そこでそれまでよりも
   聖書に親しみ、定型的な祈りとは異なる自由な祈りを身につけることになります。
   一方で、インスピレーションを大事にする信仰の形が、思いこみに陥る欠点と無縁とは
   いえないことにも気づきました。
   私はそのような過程を経て、『聖書を勉強する』ことの大切さに気づいたのです。
   自分の信仰を思いこみの危険から守るためにも、『勉強』の必要性を強く感じたという
   ことです。
   カリスマティックな『祈りの集い』は、そういう意味でも貴重な体験でした。

以上のような私の理解からすると、主任司祭の『聖書は勉強するものではない』という説教台から
の呼びかけは、信仰年のはじまりのメッセージとしては、むしろ真逆の方向だと思われて
なりません。
聖書から『神様の望み・イエス様の真意』を汲み取るには、まずひとりひとりの『勉強』が欠かせ
ないのです。

     

今日の朝刊で『今道友信先生』の訃報を知りました。
今道先生の講話は、かつて英知大学キリスト教文化研究所主催の『カトリック研究講座』で
毎年拝聴していました。
やわらかい語り口で、幅広い分野の話題を取り上げてくださった講座には、独特の魅力が
ありました。

私には、次のような内容のお話が強く印象に残っています。

   それは、小教区の現状に触れた話題の際に、それぞれの信者の信仰の背景・関心が
   異なる点を考えれば、単に居住区域だけで線引きされた小教区中心の共同体だけでは
   十分といえないのではないか・・・という提言でした。

   それぞれの信者のもつ信仰体験や関心事に応じて、居住地を超えた信仰共同体が
   むしろ必要なのではないかという趣旨だと受け取りました。

私自身、小教区という共同体を否定するものではありませんが、ただそれだけで十分だとは
いいきれないという思いが強いのです。
かつては、小教区の中に『青年会』『婦人会』『壮年会』などの集まりがありましたが、
大阪教区では 2000年ごろからそういう組織が解散させられ、機能別の組織が司教館からの
指示で編成されました。
私の体験からいえば、『壮年会』というある種の生活体験を共有できる信者の横の繋がりが
切断され、司祭や司教館から見て『機能的な組織』のみに再編されたという気がしてなりま
せん。

司祭・修道者への志願者の減少にともない、信徒を教会の手足として活用しやすい組織づくり
が優先されているのが、大阪教区の現状だという気がします。

そういう中で、今道先生の提言は、大変興味深いものでした。
『聖書を勉強する』ことに関心のある信徒が、小教区という砂漠に置かれた状態にしばられる
ことなく、それぞれの志をもつ信徒の集まりに参加して、そこで自らの信仰の涵養・深化を図る
ことができれば、とても好ましいことだと思うわけです。

『信仰年』にあたって、ひとりひとりの信徒が、自らの信仰の涵養・深化を、どういう方法で
実現できるかを、これまでの小教区という組織の中だけでなく、もっと自由な、もっと広い
視点に立って考えていくことができたら・・・これが、私の実感です。

今道先生の訃報に接し、あらためてそういう思いを抱いたのでした。

   Réquiem ætérnam dona eis, Dómine !

2012/10/17

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