「信仰年」公会議50年


「聖書と典礼」 2012. 7. 8 号に、森司教様の文章が掲載されています。

   今年は、第二バチカン公会議が開催されて、50年目となる記念の年を迎える。
   現教皇は、今年の十月からの一年余を「信仰年」とし、特に第二バチカン公会議の
   振り返りとローマ・カトリック教会のカテキズムの学びを呼びかけている。

   50年前までの教会は、世界に対しては閉鎖的で、近代社会を支え導く自由・平等の
   論理や合理・実証主義、さらには資本主義的価値観を、信仰の神秘や教会の神秘を
   脅かす危険な毒として断罪し、敵視するような姿勢で近代社会と対峙し続けていた
   のである。

   そんな教会を変えなければ、という信念の下に公会議の招集を決断したのが、
   ヨハネ23世だったのである。

そして、世界や日本が当時以上に「先行きの見えない不安につつまれ、希望を見出せなく
なっている」として上で、

   こうした現実に対して教会が意義ある存在になるためにも、私たちが公会議から
   学び育てなければならないものは、何よりも社会と真摯に向き合い、自らのありよう
   を問い直していこうとするチャレンジ精神ではなかろうか。

と結んでいます。

森司教の主張は分かるのですが、単に「現代社会へのチャレンジ精神」だけでは不十分では
ないのか? 私はそういう思いを抱きます。
というのも、司教が「原潜寄港反対」とか、「脱原発」といえば、教会全体・信徒全員が、一斉に
その方向を向くことが期待されている現在の教会のありように対しては、第二バチカン公会議が
目指したものとは違う・・・という思いがしてならないからです。

第二バチカンが現代社会と向き合う方向性を打ち出したという認識には同意しますが、それは
どのような内容かと考える時、従来のような教皇・司教・司祭の指導のもと、全信徒がただ
ひたすらその指導に「従順に、つき従う」という姿ではないと私は考えます。

すでに他の個所で紹介していることですが・・・・

  私は、第二バチカン公会議の新しい視点を、「現代世界憲章」の43項の中の
  次の個所から読みとることが大事だと考えています。


    信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者 が何事にも精通
    していて、どのような問題についても、しかも重大な事がらについても、
    即座に具体 的解決策をもちあわせているとか、それがかれらの使命である
    かのように考えてはならない。むしろ 信徒はキリスト教的英知に照らされ、
    教権の教えに深く注意を払いながら、自分の責任を引き受けるようにしな  
    ければならない。

    キリスト教的なものの考え方に従って、ある状態におい て、ある特定な解
    決策を選ぶということがしばしば生ずるであろう。他の信者は同じくまじめに    
    考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すということもたびたびあり、
    それもまた当然なことである。
  

  この文章を普通の感覚で読めば、至極当然と思える内容です。
  ところが第2バチカン公会議の公式文書の中に、わざわざこういう一文が盛り込まれているところに、
  それまでのカトリック教会内の意識なり・雰囲気がどういうものであったかが、はっきりと見えている
  と考えることができます。

  もうひとつ、「現代教会憲章」を巡っては、次のようなエピソードが知られています。

  今ここで、憲章中で、憲章の精神を代表する一つの典型的な個所を引き合いに出しておく。
  それは憲章の第3章33番の次のことばである。

    「教会は神のことばの遺産を大事にし、そこから宗教と倫理の領域において判断する
    ための原則を導き出すけれども、そうかといって教会は、現代のおのおのの問題に
    対してすぐ解答をもっているわけではない。」

  実はこの文章は、草案とは違っている。草案では、

    「現代のこれらすべての問題に対して、教会は普遍的な解答を啓示から導きだす」

  となっていた。つまり教会は聖書の中から、解答を自動的にひきだすのではなく、苦労
  しながら解答を探すための光と力をうるだけであるということである。
  これは一例にすぎないが、上からの神学ではなく下からの神学を試みるための基本姿勢が、
  この個所からうかがえるであろう。

第二バチカンが打ち出した新しい道は、信徒が世俗の事柄に関して、自らの信仰に基づいて
それぞれの判断をするという方向性ではないでしょうか?

そうだとすれば、森司教のおっしゃるような「何よりも社会と真摯に向き合う」ことに止まらず
「信徒ひとりひとりが、己の信仰に基づいて『それぞれに判断』する」ところまで、深く読みこんで
いかなければ本物にはならない・・・と、私は思うのです。

「信仰年」を、『従順な信仰の年』ではなく、真の意味で「信徒が自らの信仰を強め・確立していく
きっかけの年にする」・・・そうあって欲しいと願います。

2012/07/09

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