信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者 が何事にも精通 していて、どのような問題についても、しかも重大な事がらについても、 即座に具体 的解決策をもちあわせているとか、それがかれらの使命である かのように考えてはならない。むしろ 信徒はキリスト教的英知に照らされ、 教権の教えに深く注意を払いながら、自分の責任を引き受けるようにしな ければならない。 キリスト教的なものの考え方に従って、ある状態におい て、ある特定な解 決策を選ぶということがしばしば生ずるであろう。他の信者は同じくまじめに 考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すということもたびたびあり、 それもまた当然なことである。 |
今ここで、憲章中で、憲章の精神を代表する一つの典型的な個所を引き合いに出しておく。 それは憲章の第3章33番の次のことばである。 「教会は神のことばの遺産を大事にし、そこから宗教と倫理の領域において判断する ための原則を導き出すけれども、そうかといって教会は、現代のおのおのの問題に 対してすぐ解答をもっているわけではない。」 実はこの文章は、草案とは違っている。草案では、 「現代のこれらすべての問題に対して、教会は普遍的な解答を啓示から導きだす」 となっていた。つまり教会は聖書の中から、解答を自動的にひきだすのではなく、苦労 しながら解答を探すための光と力をうるだけであるということである。 これは一例にすぎないが、上からの神学ではなく下からの神学を試みるための基本姿勢が、 この個所からうかがえるであろう。 |