3月11日
あの震災の日から一年が経過しました。
今、一番気になることは復興への道筋がまだまだ見えていないことです。
とりわけ、ガレキの処理が遅々として進まず、町の再興計画も・人々の暮らしの立て直しの見通しも
明らかにし難いことです。
見通しが見えている場面でのさまざまな困難は、がんばって・努力して克服できるものでしょうが、
今の東北のガレキ処理の問題は、あまりにも先が見えず、最大の『障壁』になっています。
参考写真 ⇒ |
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政府は、やっと全国の自治体に協力要請をすることにしたとのこと。
各地の自治体が、ガレキ処理の受け入れに消極的な最大の原因は、「放射能汚染」への不安だと・・・
とりわけ強い反対運動をしている人々がいることが、自治体の決断をためらわせている・・・
多くの人が「絆」という言葉を口にし、幾ばくかの義援金や東北の物産の購入などをしているのは
結構なことですが、最大の「絆」は、被災した地域ではどうにもならないガレキ処理を、汚染の
ゆえに拒むのではなく、日本人全体で「ともに引き受ける」決意をすることではないか!!
沖縄の基地の問題にしても、自分の住む町の安穏だけを大事にして、沖縄に重荷を押しつけている
のが、日本の現状であるように、東北のガレキの重荷を被災地域に押しつけたままにしておいて
よいのでしょうか?
「絆」とは、よいことも・わるいことも、ともに担いあうことではありませんか?
発言の少ない大勢の人々よりも、声高に反対を叫ぶ人の方が世のなかの動きを決め、多くの人々の
善意・絆への思いをかき消している現状を悲しく思います。
2つの写真は 別々のものです。 |
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わたしのページのテーマ「目の前のひとりに本気でかかわる : 最後は野垂れ死を甘受する」という
イエスの生き様が、今、この困難の時にこそ意味をもつのだと思います。
3月11日の日曜日のミサ典礼文には、被災地の方々に神の恵みがありますように・・・という
言葉に溢れてはいましたが、単に神に祈るのではなく、自らがあのガレキの処理に名乗りを上げる
勇気こそがキリストに倣う者の真の姿だと痛感します。
放射能の影響がどうのこうのよりも、現に、その影響に悩み苦しみ・先の見通しのたっていない人々と
苦楽を共にすることの方が、はるかに大切なことだということを心に刻み・行動したいと思います。
2012/03/12
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