「施し」とは?


2月22日は「灰の水曜日」でした。当日の小冊子「聖書と典礼」の最終頁に来住神父の次のような文章がありました。
     90年代半ば(の)ローマ・・・・街には施しを求める人たちがいました。
     道を行く人たちは、空き缶に幾ばくかのお金を入れて(いました。)
     今の教会の言説では、このような「通りすがり」の施しを暖かい眼差しで
     見ないような気がします。
     釣り銭程度のものをあげて、何か善いことをしたような気になっているのは
     笑止。 関わるなら、自分の生活が傷むくらいに関われ・・・、と。
     確かに正論ではあるのですが、このような厳格主義が自然な愛の発露を
     妨げているのではないか・・・

     通りすがりの愛の交換は今でも可能です。乗客が増えてきたら、隣の席に
     置いていた大きな荷物を・・・自分の膝に載せる。 道を知らない(人)に
     快く道を教えてあげる。
     「施す」ということを一度ゼロ地点に戻って実行しませんか。
別にクレームをつけるまでもない文章のようにも思えますが、やはり違和感を覚えます。

それは「施し」という言葉をめぐってです。
第一は、「隣の席の大きな荷物を膝に載せる」とか「道を知らない人に道を教えてあげる」という
ようなことが≪施し≫という大袈裟なものであるのかどうか? という点です。

同じ地球上に住んでいる人間同士、助け合っていくのは「当然」かつ「常識的」な話でしょう。
電車やバスの中で、ひとりで二人分の座席を占有するなどというのは「非常識」なふるまいですから
隣の席の荷物を自分の膝にのせて、席を他の人が利用できるようにするのは「当然」の話です。

また、道を知らない人に教えてあげるのも「常識的」かつ「当然」のことでして、同じ空気を吸っている
隣人に対して特別なことではありません。知識は他人に話しても減るものではないし、それを「拒む」
ことの方が、むしろ異常な・非常識なふるまいです。

なぜこの程度のことを、宗教とか信仰というレベルで語るのでしょうか? 私には理解できない感性
としかいいようがありません。

第二は、「施し」についての福音書の記述との関係からの違和感です。
マタイ 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
      さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
    6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと
      会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
      はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
    6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
    6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを
      見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
    6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
      偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
      はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
    6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、
      隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
      そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

   19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、
      貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。
      それから、わたしに従いなさい。」
キリスト者にとって、自分の持っているものを「相手に差し出す」ことは、イエスに倣う生き方
としてとても大事なテーマです。
それは「見せるため」ではなく、また「本気で・徹底してとりくむ」ことがらです。
それを『正論ではあるが、自然な愛の発露を妨げる』と否定的にとらえる司祭の発言には
同意いたしかねます。

宗教家から見れば、イエスのような徹底した生き方よりは、「幾ばくかのお金」を空き缶に入れる
信者たちの方が『司牧対象として与しやすい』と言っているようで得心ができない私です。

もうひとつ言えば、先に引用した6章5・6節も意味深長な個所です。
もっとも、「父が報いてくださる」というマタイ好みの表現には同意できませんが・・・

2012/02/24

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