90年代半ば(の)ローマ・・・・街には施しを求める人たちがいました。 道を行く人たちは、空き缶に幾ばくかのお金を入れて(いました。) 今の教会の言説では、このような「通りすがり」の施しを暖かい眼差しで 見ないような気がします。 釣り銭程度のものをあげて、何か善いことをしたような気になっているのは 笑止。 関わるなら、自分の生活が傷むくらいに関われ・・・、と。 確かに正論ではあるのですが、このような厳格主義が自然な愛の発露を 妨げているのではないか・・・ 通りすがりの愛の交換は今でも可能です。乗客が増えてきたら、隣の席に 置いていた大きな荷物を・・・自分の膝に載せる。 道を知らない(人)に 快く道を教えてあげる。 「施す」ということを一度ゼロ地点に戻って実行しませんか。別にクレームをつけるまでもない文章のようにも思えますが、やはり違和感を覚えます。
マタイ 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。 さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。 6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと 会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。 はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを 見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、 貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。 それから、わたしに従いなさい。」キリスト者にとって、自分の持っているものを「相手に差し出す」ことは、イエスに倣う生き方