互いに愛し合う?


よく「キリスト教は愛の宗教である」という言葉を聞きます。
たしかに「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15章17節)などのイエスのことばが聖書には記されています。

ところが一方では

   マタイ福音書 5:43 - 47

      あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
      しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
      あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
        正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
      自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
        徴税人でも、同じことをしているではないか。
      自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
        異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
自分を愛してくれる人を愛したところで・・・というイエスの指摘こそが、イエスのことばの真骨頂です。
イエスのことばには、強烈な現状批判・常識否定があふれていることに気づくはずです。

それがいつのまにか常識的な・世間一般の通念に言いかえられ・置き換えられているのがキリスト教におけるイエスの姿ではないでしょうか?

イエスの言いたかったことは「愛する人に愛で応える」というような生ぬるいことではなく、「目の前の出来事に<はらわたがちぎられるような感情>を覚え、
その相手に駆け寄らずにはいられない・・・という激しい生き方をしなさい!!」ということだと私は受け止めています。

それは単に「互いに愛し合う」というようなきれいなものではなく、むしろ衝動的な魂の叫び・感情の高まりからくるものです。

より多くの戦争による死者を防ぐために、原子爆弾の投下は正しいことだったなどという平均的なアメリカ人の考え方は、「他の大勢を愛するからこそ、
広島・長崎の人々を惨殺することは許されるのだ」という反イエス的発想ではないでしょうか。

アメリカのキリスト教徒は、広島・長崎に来て、この地でどのような悲惨な出来事が起こったのか? それは誰によって引き起こされたのか?を、
自らの信仰に照らしてしっかりとみつめ・思いを巡らせて下さい。
そこで目の当たりにしたことが、自分の信仰に照らして<はらわたがちぎられるような感情>を生み出すかどうか? を体験して下さい。

キリスト教のいう愛しあうという信仰の神髄が、自らのうちに生きているかどうかを確かめていただきたい。

これは私の率直な気持ちです。キリスト教徒が、本当にイエスのことばを自らの生き方に反映させているのかどうかが問われていると思います。

2010/8/18