弟を見送って・・・
1年以上、更新を怠ってしまいました。
昨年8月に弟が「終末期」の宣告を受け、彼の最期を看取りました。
一周忌の行事も無事におえ、やっと気持ちが落ち着いてきたところです。
今思い起こすと、私自身がこの間に痛感したことは、
・ 宗教の果たす役割の再評価
・ 宗教の意味を問い直す
という2つの点でした。
それは別々の事柄ではなく、実は同じ根っこから出てきた双葉のようなものでした。
宗教は死を前にした人を慰める
弟が「終末期」をどの程度意識していたかは不明ですが、私に次のような問いかけをしてきました。
神様は俺のことを大事にしてくれるよね。
私は「もちろん大事にしてくれるよ」と答えました。そして「病室に神父様を呼ぼうか?」と尋ねました。
まもなく、スペイン人の司祭が病室を訪ねてくれました。私は弟の病状を説明し、できれば「終油の秘蹟」を授けて欲しいとお願いしました。
司祭は弟の意識がはっきりしているかと確認を求め、今朝ははっきりとしていると説明すると、快く引き受けてくれました。
病室には、弟と神父様と私とだけでしばらくの時間を過ごさせて欲しいと看護師長さんにお願いし、「終油の秘蹟」をはじめてもらいました。
福音書朗読は、マタイ8章の「百人隊長のしもべのいやし」の個所です。私はそれを朗読しながら、涙が止まりません。
びっくりした司祭は朗読を代わりましょうと言ってくれましたが、涙声の中で私は朗読を続けました。
司祭は典礼の定めるとおりに「終油の秘蹟」を授け、「痛みを和らげる医療行為は安心して受けてよいのです。神様を信頼し、安心して毎日を
過ごしなさい」と弟を励ましました。
弟は、その後、意識がはっきりとしない時間が多くなり、3週間ほど後に息を引き取りました。
この「終油の秘蹟」に立ち会ったことが、私にとって「弟を見送る最も濃厚な時間」だったと思います。
カトリックという伝統宗教が、死に直面した弟と、それを見送る私とを間違いなく励まし・慰める役割を果たしてくれました。
宗教の最も大きな役割は、やはり「死に向き合う」人々にしっかりと相対し・包み込むことだと確信させられます。
宗教にご利益を求めるのはやめよう
宗教は、基本的に「ご利益」を人々に約束しているように思えます。
ご利益とは、何も現世的なことがらを指すだけでなく、来世での幸福を含んだ概念だと私は理解します。
人間は、目の前のことで、将来のことで、来世のことで、宗教(神仏)に「自分にとっての利益」を求めるという傾向を
もっています。
そして宗教は、そのような人々の欲求に応えるべく、ことば巧みに人々にその方法を提示しているように思えます。
「病気を癒して欲しい」「入学試験に合格させて欲しい」「次の日曜日は運動会なので晴天にして欲しい」・・・
こういう欲求が悪いといっているのではありません。 ただ、それを宗教(神仏)に願うことに意味があるのか?
本当に宗教はそれに応えうるのか? という疑問です。
「病を癒すのは<神仏>ではなく、むしろ<宇宙の采配>ではないのか?」
私はそう思うようになりました。
<宇宙の采配>という言葉は、最近出版された書籍のタイトル「すべては、宇宙の采配」によるものです。
著者は自然農法でりんごを栽培している方で、「大事なことは宇宙(自然)の中に組み込まれている仕組みを
見つけ出し・それを活用( or 順応)していくこと」だと主張なさっていると私は理解しました。
私は、「JIJI の三一神理解」の中で、創造主である神は天地創造の際に、宇宙万物の中に「アルゴリズム」を
組み込まれたのではないか ・・・ と推測しました。
万物の営みはそのアルゴリズムに従っているのであり、個々の事象に神が介入し・本来のあるべき姿を思いつきで
変更したりなさることはないのではないか? と整理しました。
宗教(神仏)が、病を癒したり・試験の合否を画策したり・天気を左右するというのが「幻想」でしかないことを、
現代人は十分に知っています。
しかしそれでもなお、人はその弱さのゆえに、神仏に頼ろうとする傾向があります。
そして宗教はそういう人々の傾きを利用(?)して、自らの(現世的)利益を得ようとしているように見えます。
「宗教家・聖職者」は、むしろ宗教のもつそうしたイメージを正していく方に、ベクトルを向け直すのがよいのでは
ないでしょうか。
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弟を見送るという出来事を通じて、私は「病気治療は、宗教の領域ではない」ことと、「死を前にした人々に
安らぎをもたらすことにこそ宗教の役目がある」という思いを強く確信したのでした。
2009/11/4