続 仏教には罪のゆるしがない?


このテーマ、もう少し考えたいと思います。前回、私は
          キリスト教でいう「罪」の概念が、仏教にはあるのでしょうか?
         もしないのであれば、罪のゆるしという概念もまた
          仏教には存在しなくても何の不思議もありません。
と書きました。

少なくともカトリックでは、原罪自罪という区別がはっきりしており、<ゆるし>の対象は、根源的には原罪にある
と考えられます。
          人祖は、悪魔の誘惑に従い、神の誡めに背いて聖寵を失いました。(公教要理 58番)

          人祖のこの罪は子孫にも伝わりました。それ故、人は生まれながら、この罪とその結果とを受けて居るのであります。(60番)

          人祖から伝わった罪を原罪と申します。(61番)

          人は自分で罪を贖うことが出来ません。限りなく尊い神に背いた罪でありますから、之をふさわしく贖うことは、
          限りある人の力には及ばないのであります。(62番)

ところが現実の信仰生活では、根源的なことよりも、日々の信仰生活の中での<罪>とされる事柄、すなわち自罪の方が
信者の心を惑わす存在となり、罪の意識に責めたてられる状況を引き起こしています。
          正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。
          みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
          泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
           (1コリント 6:9 ,10)
もちろん人間が社会生活を営む上で、ここにあるような道徳・倫理の遵守は大切なことです。
しかし、それがそのまま「神の国を受け継ぐ:天国に入れる」条件だとなると、おい、おい・・・と言いたくなります。

私がこういう問題に拘るわけは、もし自罪で<天国行き>かどうかを裁くのであれば、イエス様による<救い>の意味は
どこにあるというべきなのだろうか?  という点にあります。

人が自分の行いによってのみ死後裁かれるのであれば、倫理的・道徳的に正しく生きる努力をすればよいわけで、そこには
イエス様抜きの「宗教」であっても一向に差し支えないという理屈が成り立ちます。

キリスト教がキリスト教たるゆえんは、イエス様による<救い>という一点にあります。
それは、原罪というキリスト教に特有のアイディア:宗教思想にもとづくものです。
その意味で、原罪自罪とは、はっきりと区別して考えることが必要なのです。

つまり、今回のテーマである<罪のゆるし>の対象を自罪と考えるなら、それぞれの人を「全人生の善行と悪行を天秤はかり」で
審判する仏教の方が筋の通ったアイディアだということができるでしょう。
キリスト信者が、自分の<罪:悪行>を、イエス様の十字架の血の力で<ゆるし>て貰おうという魂胆は、虫のよい・あまり道徳的な
アイディアとはいえないと非難されても仕方ないでしょう。

ということで、キリスト教における<罪のゆるし>を、根源的には原罪に対するもの・神と人との根本的な関係にまつわるもの
だとするならば、原罪という概念:アイディアを持たない仏教において、<罪のゆるし>という発想が出てこないのは極めて当然の
ことになります。
そのような比較で、両方の宗教の優劣を論じるのは愚かなことというべきでしょう。



ところで、原罪と関連付けて「放蕩息子のたとえ」を読むとどうなるのでしょうか?
          また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
          弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。
          それで、父親は財産を二人に分けてやった。
          何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、
          財産を無駄使いしてしまった。
          何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
          それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
          彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
          そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、
          わたしはここで飢え死にしそうだ。
          ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
          もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
          そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、
          憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
          息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
          もう息子と呼ばれる資格はありません。』
          しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、
          足に履物を履かせなさい。
          それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
          この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
          ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
          そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
          僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
          兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
          しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度も
          ありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。        
           (ルカ 15:11 〜 29)
私は、イエス様が本当に原罪のゆえに、神は人類を裁くと考えておられたのだろうか? という疑問を抱くのです。
ここで描かれている<父>は、決して息子のことを「放蕩息子」とは呼んでいないし、その行状を非難してもいません。
ひたすらその帰りを待ち続ける<父>であり、息子の帰宅を歓迎する<父>です。
イエス様は、このたとえの中で、決して裁く父の姿を提示してはいません。

戻った息子が「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と詫びるのは、申し訳ないことをしたという
反省の弁として、まあ当然のことでしょう。 しかし、それが「ゆるしの条件」かといえば、必ずしもそうではない。
<父>は、息子が戻ってきたこと自体を喜んでいるのではないでしょうか? <父>は、罪びとである息子をゆるして迎え入れた
というよりは、ただひたすらに戻る日を待ち続けていたのだ・・・・と考えてよいのではないでしょうか?

それに比べると、長男の方は実に「世俗的、常識的」なスタンスです。 もしかして、イエス様は長男をユダヤ教やキリスト教の
まじめな指導者や信者を念頭に、語られたのではなかったか? と思ったりする私です。

こう考えると、原罪というキリスト教の教義は、はたしてイエス様のアイディアを受けてのものなのかという、次の課題テーマが見えて
きます。 この点は、またの機会に書いてみようと思います。

2008/4/20