仏教には罪のゆるしがない?


カトリック新聞 2008/4/13 号「声」欄に次のような文章がありました。
          大阪・茨木市の「愛と光の家」の講話で習ったことですが、「キリスト教(カトリック)と
     仏教を考えると仏教には『罪のゆるし』がありません」ということでした。
講話の講師がどなたであるかを記していないのですが、前後の文脈から見てキリスト教の立場からの仏教観のようです。
キリスト教には罪のゆるしをくださる神がいらっしゃるが、仏教にはそのような存在がない・・・だからキリスト教の方が
すばらしいのだという意味であれば、私はひとこと反論したくなるのです。

そもそも、キリスト教でいう「罪」の概念が、仏教にはあるのでしょうか? もしないのであれば、罪のゆるしという概念もまた
仏教には存在しなくても何の不思議もありません。
          実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。(ローマ 4:15)

          律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。(ローマ 5:13)

          律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。
      隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。(ヤコブ 4:12)

こうした言葉から私が思うのは、ユダヤ教やキリスト教では<律法>という神と人との約束事があるので、それに違反する
すなわち<罪>がもたらす恐怖といったものが常に日常生活の目の前にぶら下がっている。
罪の意識に責めたてられる人間には、神による<ゆるし>がなければ安らかさが得られない・・・そういう風に思えます。
つまりキリスト教的な意味での<罪のゆるし>とは、宗教上の約束事が前提であり、それが人に<罪>を意識させ、
<ゆるし>への渇仰を生み出しているのだと考えられます。

一般的な日本人の感覚で言えば、日々の生活の中で<罪>を意識することはないでしょう。<罪>という言葉自体が
それほど日常的な用語ではなく、<つみ=犯罪>という理解の方が日本人には普通の感覚だろうと思います。
クリスチャンから「あなたを含めすべての人は罪びとです」といわれたら、ほとんどの日本人は「理解しがたい・無礼な表現」
だと思うことでしょう。



私には、キリスト教は減点主義・仏教は得点主義のような印象があります。

          キリスト教(カトリック)では、どんなに熱心な信仰生活を生きていても、ひとつの「大罪」で地獄行きが決まります。
          それを免れるためには「ゆるしの秘蹟:俗に言う懺悔」が不可欠だとされています。
       
          一方、仏教での審判は、天秤ばかりのように思えます。 つまり、片方にその人の全人生の善行が、もう片方に
          全人生の悪行が乗せられ、どちらに傾くかによって行き先が決まる。
不思議なことに、イエス様の言葉には、次のような表現があるのです。
          そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために
          用意されている国を受け継ぎなさい。
          お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
          裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
          すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが
          渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
          いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
          いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
          そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにして
          くれたことなのである。』
          それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意して
          ある永遠の火に入れ。
          お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
          旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
          すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気で
          あったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
          そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかった
          ことなのである。』
          こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
           (マタイ 25:34 〜 46)
ルカ福音書16章の「金持ちとラザロの話」でも、似たようなスタンスがうかがえます。
つまり、イエス様は「大罪ひとつで地獄行き」といった<審判基準>を提示なさってはいないのです。
むしろ、ひとりひとりが「目の前の困っている人たちにどのように向き合ったか」を問っていらっしゃるのです。

たしかに福音書はイエス様が罪のゆるしを述べられた様子を記しています。

          すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、
          中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
          ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
          イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
          『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
          人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、
          家に帰りなさい」と言われた。
           (マタイ 9:2 〜 6)

ここは律法学者との論争という、当時の宗教的環境の下でのやりとりですから、普遍的な表現を求めるのは不適切です。
むしろ、そういう状況の中で、目の前の病気の人に真正面から関わっていくという「イエス様の生き方」が読み取れると思います。
しかも、それが律法学者やユダヤの支配層から敵視されることになるのを覚悟のうえで、あえてそうなさっているイエス様なのです。

日々の生活の中で、神との約束違反である<罪>を犯すことをチェックすることばかりに目を向け、<罪のゆるし>を希う信仰
生活を送ることが「イエス様の生き方」に近いのか? 
それとも「善行と悪行との天秤」をイメージして目の前のひとりひとりに関わろうとする人々の方に、イエス様に通じる生き方がある
と見るのか?
そんなことを考えさせられた「声」欄の文章でした。

2008/4/17