「頑張らない教会」への期待
「カトリック新聞」 2008/3/8 号「声」欄に、松山教会の方の次のような文章がありました。
教会に集う人には、さまざまな思いや願いがある。
「日曜のひとときくりは、のんびりしたい、安らぎたい」という人も少なくないだろう。
・・・・ 多くの人は、日々、業績を挙げること、多様な要望やクレームに対処すること、
相対立する利益や意見を調整すること等々に精いっぱい取り組んでいる。
・・・・ 教会の中で一般社会と同様のプレッシャーが感じられるなら、人々の足は
遠のき、外に向けての宣教も進まない。
「やけ酒をあおるより教会へ行こう」「温泉でくつろぐのもいいが教会でくつろぐのもいい」
・・・・ こんな声をもっと聞いてみたい。
そのためには「頑張らない教会」という視点も必要であると考える。
教会の現状と、その中で<プレッシャーを受けている信者>の姿が垣間見える記述だと思います。
イエス様が生きたあの時代・あの地域の状況を、聖書は私たちに示しています。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイ 11:28)
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。
その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。
イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
(ルカ 7:11〜 15)
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、
わたしを清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
(マルコ 1:40 〜 42)
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
(ヨハネ 8:3 〜 9)
私たちは、イエス様が周囲の<苦しんでいる人、悩んでいる人>を無条件に受け入れ、慰め、癒しておられる
様子を数多く読み取ることができます。
イエス様の生き方とは、そうした人々をしっかりと受け止める生き方です。
教会が「イエス様の生き方」を継承する立場であるなら、そこに集う人々が<プレッシャーを覚える>ような
共同体であってはならないのではないでしょうか?
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(マタイ 9:12)
教会は、丈夫な・役に立つ(信)者だけを招く存在になってはならぬと思います。
前回とりあげた、「神様って甘くない」と信者にプレッシャーをかけたあの筆者の言い分は、おそらく
教会に来たばかりの頃は、「医者を必要とする」者であってもよい。
しかし、洗礼を受け、信仰生活に入った以上は、「医者」の側にまわってその役割を担うべきだ。
ということではないかと推測します。
はたしてそうでしょうか?
1コリント 12章風にいえば、
皆が医者であろうか。皆が勇者であろうか。皆が力持ちであろうか。皆が博学の士であろうか。
イエス様の生き方、私たちへのメッセージの真意を、ご一緒に考えて行きたいと思います。
引き続き、読んでいただければ幸いです。
2008/3/31