遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《14》

第13:「深い河」を読む(6)

  * 第13章 彼は醜く威厳もなく

       「深い河」のあとがきに佐伯彰一氏の「ふしぎな類縁」という文章が収録されています。

            全十三章というこの小説の不吉な数にも、何らかの寓意がありそうな気がするが・・・

            「大津の生き方もその話も文字通り彼女とは別世界のものだった。彼女は玉ねぎのこと
            など何も知らなかったが、玉ねぎが大津を完全に彼女から奪ったことだけはわかった」
            という抑制の利いた描写の効果は見事という他ない。昂ぶることなく、淡々と描きながら、
            この失敗つづきの駄目男、いわばはぐれ神学生の背に、いつか聖なる光線が輝き始める
            のを見てとらずにはいられない。この際の大津は、インドの娼婦たちを「抱いた」などと
            いう冗談まで、さらりと口にして、美津子を驚かせもする。

            この終始ぶざまでいわば泥にまみれた聖者、大津のイメージが、当方をふくめて、数多い
            現代読者の心にしかと忘れ難く刻印されるだろうことは、疑いの余地がないのだ。
            七十代の遠藤さんの輝かしい達成、霊的な勝利を讃えよう。

    「そのボストンバッグの中もカメラですか」
    「御名答。女房は昼まで眠るそうですから、珈琲を飲んで、ぼくも午前中、ガンジス河に行ってきますよ」
    「ガンジス河の火葬場は撮影が絶対に禁止と江波さんが言っていたでしょう。特に、昨日今日はヒンズー
    教徒たちの気がたっているからね・・・私も昨夜彼等がシーク教徒の男を血まみれになるまで撲っている
    のを見ましたよ・・・今日はカメラを持たぬほうがいいんじゃありませんか」
    「ロバート・キャバが言ってます。危険を冒さぬカメラマンに傑作を撮れぬって。印度人のいうノー・プロブ
    レムですよ。大丈夫、大丈夫。火葬場は撮りませんから」

    そそくさとタクシーに乗りこんで、一人で出発した三條の姿を見て、磯辺は急に不安な気に駆られた。
    愛想だけはよいが、他人の迷惑はかえりみない世代、どの会社にもいるのだ。
    三條は悪い奴ではないが、無神経な若者だと磯辺は経験で、知っていた。
    「ダシャーシュワメード・ガート」
    三條はいささか得意になって行く先をハンドルを握っている男に告げた。その高飛車な口調に印度人の
    運転手は畏まって、
    「イエス・サー」
    と反射的に答えた。三條はボストンバッグのカメラを愛撫した。この固い物体。彼の生き甲斐。彼の相棒。

    ボストンバッグの上からカメラをさわった。
    禁止されているゆえに何とか匿しどりしたい。日本人写真家の一人もこれらの光景を写していないことを、
    駆け出しでも三條は知っていた。だから成功すれば、一流の写真雑誌は彼の名前入りで掲載してくれる
    だろう。
    写真は思想じゃない、素材だ。だから印度を新婚旅行の行き先に選んだのだ。ロバート・キャパだって、
    戦場という劇的な場面がなければ世界に名をはせなかったろう。
    三米ほどの二本の棒に遺体をのせ、何人かの男たちがそれを担って狭い路を通りすぎる。
    一組をやり過ごすと三條は素早くボストンバッグのチャックをあけ、愛用のカメラを取り出した。
    顔までカメラを持ちあげた時、うしろの棒をかついだ男が突然ふりむいて、はっきりした日本語で言った。
    「やめてください。写真は禁止されています」
    三條はシャッターを押すのを忘れて茫然とその男を見た。
    思いだした。数日前に江波につれられて河を見物に来た時、火葬場近くで出会ったあの日本人だ。
    江波が話しかけたが、男は自分の粗末な身なりを恥じたのか、曖昧な返事をしただけで、他の印度人と
    逃げるように姿を消した。
    遺体とその運び屋のあとをつけながら、三條は、あの日本人に出会えたことをむしろ、しめたと思った。
    「要領、要領」と彼はいつもの癖で何事も良いほうにとった。「あの日本人に何とか話をつけて、そっと
    撮らせてもらえないか。もちろん、金をつかませれば、向こうだって嫌だ、とは言うまい」
    火葬場が近づくと、一種独特の死臭が鼻につく。遺族が膝をかかえて近くに座りこみ、薪の上にさきほど
    の担架がぶらさげられ、火をつけられるのを待っていた。

    「木口さん」
    経文を唱えていた木口はサリー姿の美津子がはじめはわからず、
    「え」
    といぶかしげに見つめたが、
    「おや、あんたですか」
    と答え、
    「見まちがいましたよ。サリーなど着ておられるから」

    右に二人、左に四人、ヒンズー教徒たちの男女が顔を洗い、水を口にふくみ、合掌をしている。
    誰も、美津子をふしぎそうに見る者はいない。

    彼女は眼で火葬場を探した。火葬場では柿色の布にまかれた新しい死体が薪の上につるされた。
    担架を担った男たちが、別の死者を運んでくる。大津はどこにも見当たらない。
    美津子は河の流れる方向に向いた。
    「本気の祈りじゃないわ。祈りの真似事よ」と彼女は自分で自分が恥ずかしくなって弁解した。
    「真似事の愛と同じように、真似事の祈りをやるんだわ」
    視線の向う、ゆるやかに河はまがり、そこは光がきらめき、永遠そのもののようだった。
    「でもわたくしは、人間の河のあることを知ったわ。その河の流れる向うに何があるか、まだ知らない
    けど。でもやっと過去の多くの過ちを通して、自分が何を欲しかったのか、少しだけわかったような
    気もする」
    彼女は五本の指を強く握りしめて、火葬場のほうに大津の姿を探した。
    「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河でいのっているこの光景
    です」と、美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に変わっている。
    「この人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかに
    わたくしもまじっています」

    その瞬間、火葬場におりる階段付近から叫びが起こった。蹲っていたヒンズー教徒たちが一斉に立ち
    あがり、何か叫びながら走りはじめた。その方角に一人の東洋人があわてて逃げている。三條だ。
    まぎれもなく三條だ。
    と、遺体を運んでき、休息していた男たちから、一人が飛び出して、遺族たちの前に立ちはだかり、
    なだめにかかった。だが激昂した彼等は、たちふさがったその男をとり囲み、四方から撲ったり蹴って
    いる。その間に三條は河岸の背後の迷路に逃げこんだ。首相の暗殺で気がたっているヒンズー教徒が、
    止めにかかった男に怒りをぶつけている。貨物車から出された荷物のように何段もガートを転げ落ちた
    男は、そのまま動かなくなった。
    沐浴していた人々が集まってくる。転げた男をとり囲んで輪ができた。濡れた体と体の間から美津子は
    血だらけの大津の体を見た。
    「大津さん」
    彼女の叫び声に、水の滴るドーティやサリーで腰をまいた男女たちがふりむき、道をあけた。
    「彼じゃありません」美津子はそばにしゃがみこんだ。「この人は何もしていません」
    大津はうずく眼をあけ、無理やりに笑いを作ったが、首が盆栽のように右にねじれていた。

    「さようなら」担架の上から大津は、心のなかで自分に向かって呟いた。
    「これで・・・いい。ぼくの人生は・・・これでいい」
    「馬鹿ね。本当に馬鹿ね。あなたは」と運ばれていく担架を見送りながら美津子は叫んだ。
    「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生を棒にふって。あなたが玉ねぎの真似をしたからって、
    この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが変わる筈はないじゃないの。
    あなたはあっちこっちで追い出され、揚句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて。
    あなたは結局は無力だったじゃないの」
    しゃがみこんだ彼女は拳で石段をむなしく叩いた。


    三條は不満げな顔をしたが、気をとり直してカメラを眼の高さにあげ被写体を探した。
    黄色い泡を口からふいて壁に上半身をあずけている老婆に向けてシャッターの音が何度も聞こえた。
    その時、人々が急に道をあけた。担架を持った二人の男をつれて、ねずみ色の尼僧服をきた白人と
    印度人の若い修道女が老婆に近づいた。彼女たちは老婆にビンディー語で何かを囁き、そのうつろな
    顔を水でぬらしたガーゼでふいた。
    「マザー・テレサの尼さんたちですよ」
    と江波が日本人たちに説明した。
    「ご存知でしょう。この町に『死を待つ人の家』を作った修道女たちです。彼女たちはカルカッタでああ
    して行き倒れの男女を探しては、臨終まで世話するんです」
    「意味ないな」と三條が嘲った。「そんなことぐらいで、印度に貧しい連中や物乞いはなくならないもの。
    むなしく滑稽にみえますよ」
    滑稽と言う言葉が美津子に大津のみじめな半生を思い出させた。三條の言うように、大津がヴァーラー
    ナスィの町で、瀕死の老人や老婆を無料宿泊所や河の火葬場に運んでも、それはどのくらい役にたつ
    のだろう。それなのにこの修道女や大津は・・・・
    「わたしは日本人です」
    と美津子は白人の修道女に話しかけた。
    「何のために、そんなことを、なさっているのですか」
    「え」
    修道女はびっくりしたように碧い眼を大きくあけて美津子を見つめた。
    「何のために、そんなことを、なさっているのですか」
    すると修道女の眼に驚きがうかび、ゆっくり答えた。
    「それしか・・・この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」
    それしか、と言ったのか、その人しかと言ったのか、美津子にはよく聞きとれなかった。
    その人と言ったのならば、それは大津の「玉ねぎ」のことなのだ。玉ねぎは昔々に亡くなったが、彼は
    他の人間の中に転生した。二千年ちかい歳月の後も、今の修道女たちのなかに転生し、大津の中に
    転生した。担架で病院に運ばれていった彼のように修道女たちも人間の河のなかに消えていった。
    「江波さん」
    と美津子は江波のそばに駆け寄って頼んだ。
    「ヴァーラーナスィの大学病院の・・・例のお医者さまに、連絡とれますか」

    「あなたの友人ですか、怪我をした日本人は・・・」
    と彼は唾をのみこんで言った。
    「危篤だそうです。一時間ほど前から状態が急変しました」



    大津は、≪醜く威厳もなく≫死んでいきます。人々は大津の死にさほどの関心を寄せることはありません。
    美津子から「本当に馬鹿ね。・・・一生を棒にふって」と言われても仕方のないことです。
    しかし、作者・遠藤氏はこのような「玉ねぎの弟子」をどうしても描きたかったのだと思います。
    イエスの死が弟子たちの人生を変えたように、大津もまたイエスによってその人生を決定づけられたのです。

    私の≪脱キリスト教≫という今の心境は、そのまま≪イエスという生き方≫に倣いたいという信条・信仰です。
    
報いを求めず、賞賛を欲しない・・・・最後は「野垂れ死を甘受する」生き方:それが≪イエスという生き方≫
    この点では、大津はまさに≪イエスのように生きた≫文字通りの「弟子」だったと思います。

    イエスの直弟子たちは、己の卑怯なふるまいを悔悟するところから「復活体験」をした・・・と遠藤氏は考えて
    いますが、大津はそうではありません。この点では、大津は以前の遠藤氏が生み出した人物とは異なる
    タイプの登場人物です。ここに氏の信仰の変化を読み取ることができるように私には思えてなりません。

    つまり、氏は「沈黙」で、キチジローのような「弱い信仰」の者たちに同伴者として寄り添い、「キリストの誕生」
    では、悔悟する弟子たちのうちに「復活体験」と呼ぶかたちで「転生」し、今、「深い河」では、真剣にイエスを
    慕う大津のうちにその≪生き方・生き様≫を再生・継続させているイエス自身を描いたということです。

    すでに述べたように、イエスが教えたかったこと・伝えたかったことは

       決して「上目遣いに神のご機嫌をとる」ことでもなく、「神に自分の利益を祈り求める」ことでもなく、
       ただ、イエスに倣って 「目の前のひとり」 とりわけ苦しんでいる人・困っている人・助けを必要として
       いる人と本気で関わること。

    だと私は受けとめていますが、氏も「深い河」では大津のうちに、そのような≪イエス信仰≫を実現させていると
    思わずにはいられません。
    復活理解や十字架刑の理解などで、氏の信仰と私のそれとには大いに違いがありますが、上記の一点に関し
    ては、氏と私の間に共通するものがまちがいなくあると確信します。

    いずれにしても、「沈黙」で提示された「弱い信仰」は、「深い河」での ≪イエスに倣った生き方≫ に成長して
    います。 ここにイエス信仰の本当の姿が出現しているのだというのが、今回の考察の結論です。

   私はこのテキストを、今年の待降節の黙想のテーマとして、幼いイエス様に捧げます。

   そして、阪神大震災の際に作詞・作曲した自作の歌を、もう一度、こころに刻みたいと思います。    

       1. がれきの山に  草花を手向け
          泣き崩れてる  あの人の
          肩を抱いて   涙流したあなた

            そんなあなたの優しさを  今日も待っている人がいます
            あなたの町に       あなたの傍に

       2. 粉雪舞う夜   避難所の床に
          蹲ってる    あの人に
          笑顔見せて   話しかけたあなた

            そんなあなたの・・・・・・

       3. 水もガスもない 仄暗い部屋で
          ひとり耐えてる あの人に
          夕餉届け    灯り点けたあなた

            そんなあなたの・・・・・・

          呼んでいる声、それはキリストの声。






謝辞 : このような黙想の機会を与えてくださった高槻教会のアデリノ神父様に
      こころから感謝いたします。



2011.12.19


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